昭和十八年の今日*、父・稔が旧満州国熱河省灤平で死んだ。生きていればちょうど百歳だが、彼にとってはわずか三十三年ちょっとの短い人生だった。生まれたのは明治四十三年八月十日、父三之助、母モトの六男として、相馬郡中村町(現・相馬市)中野字北反町二番地で。生家はもとは相馬藩士の家柄だったが、明治維新で禄を失い、やむなく蝋燭屋を始めたが失敗、かくして一家は南は名古屋、北は網走とちりじりに離散した。このあたりのことはまったくの闇で、はっきりしたデータは何も残されていない。ともかく稔は相馬中学を出たあと、小高町金房小学校の代用教員となるのである。
ところでそのころばっぱさんも教員生活に入った。こんな短歌(もどき)を書いている。
はじめての教え子達は
女子生徒 福浦小の五年生なりき。
それでは福島女子師範を出た正教員のばっぱさんと代用教員の稔はどうして知り合ったのか。それは稔の上司、校長の豊田秀雄(俳人・君仙子)を介してである。出会いの頃のこともやはり歌に残している。
白絣(かすり)黒の兵児帯 下駄ばきの
夫(つま)と出会いし 夏の夕べに
人目さけ それぞれ乗りて 降り立つは
客足のなき新地駅なり(はじめてのデート)
砂浜の砂を踏みつつ従いし
二人の他に人影もなし
雷鳴と驟雨に逢ひて 行く末の
不安の予感 おそれつつ帰る
やがて二人は豊田校長の仲人で、昭和九年十二月十日に結婚する。ついでだから新婚の頃の歌も紹介しよう。
ささやかな新居は村に一つだけ
揚げ窓のある洋館なりき
職員会のありし夕べは隣りなる
小店に走り納豆を買ふ
懐妊をしりて夫は休日を
たんぼの堀に鮒を掬へり
なんとも絵日記みたいに分かりやすい歌である。そう、いい機会だからばっぱさんの短歌もどきを読みながら、若き日の父と母の後を追ってみることにしよう。
* 【息子追記】投稿は日付が変わって2010年12月19日午前0時39分。祖父稔の命日は12月18日。