昨夜のモノディアロゴスを読んだ若い友人が、私は純正インクしか使いません、と暗に詰め替えインク使用を批判するようなメールを送ってきた(もちろんそう取るのはいささか被害妄想かも知れないが)。それ対しては次のようなメールを返した。
「あけましておめでとう。今年もヨロシク。ところでプリンターについてのご意見、あまりにメーカーよりの見解ですね。私の場合、大量の印刷をするので、こちらも死活問題です。もちろん保証外になることは承知してますが、保証と言っても一年しかしてないわけで、消費者は詰め替えインクをどんどん使うべきだと考えます。こうして淘汰されていくわけでしょう。ともかく日本の消費者はあまりに自己主張がなさ過ぎると思います。そう思いませんか。」
たぶん私の本意は伝わらなかったと思うが、ただこのことをきっかけにして、いろんなことを考え始めた。たとえば飛躍かも知れないが底部では繋がっている問題として、真贋論争というものがある。それをさらに広げていけば、究極的にはプライバシー問題にも繋がっていく。
さてどこから始めようか。そう、つい最近のこととして、確か村上春樹たちが、自分の作品がことわりもなくネットで流されている、流した犯人を見つけて提訴する、とかの報道があった。そのとき真っ先に思ったのは、春樹よ本気かい、君の作品が名の知れた出版社からしかるべき価格で売り出されることだけが歓迎すべきことで、だれかが許可もなく海賊版を出すのは御免蒙るというわけだ。でも海賊版でしこたま儲ける輩に対しては、商業道徳の意味からしても抗議してもいいが、ネットに流す本人にとってなんの経済的見返りがない場合はどうだろう。出版元には確かに申し訳ないことだが、作家としてそれだけ多くの人に読んでもらうことに対しては、心ひそかにでいいが、有難い嬉しいことでないんだろうか。
つまり自分の作品が剽窃されるのだったら、ぜんぜん話は別だが、そうではないのだから、それこそ出版元に寄り添っての発言などしてほしくはなかった。つまり少なくとも黙認してほしかったのである。といってこれがそう簡単な問題ではないことは重々承知している。これはいわゆる著作権問題であるが、これと似た問題として、いわゆる「真贋論争」というものがある。たしか別名を「フォニイ論争」と言ったんじゃないだろうか。1973年、『帰らざる夏』で谷崎潤一郎賞を受賞した加賀乙彦、同年活躍した小川国夫、辻邦生ら三人を江藤淳が「フォニイ」(贋物、ここでは通俗という意味)で批判したため、江藤と平岡篤頼とのあいだに起った論争が有名である。いやこんばんはここまでにする。頭が働かなくなった。他に小林秀雄の『真贋』というエッセイにも触れよう」と思っていたのだが、眠気で…明日続ける。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたコメントを転載する(2021年4月13日記)。
フォニィ論争とはなつかしい。江藤淳ももう久しく読まなくなりました。村上春樹の俗物性もこのころから馬脚が出始めていた、ということがうかがえる話ですね。