自分探しの旅

タブッキの『インド夜想曲』のことが気になっている。結局あれは、自分探しの小説なのか。私とは何者か、と考えていけば、実は何ら確定的なもの、確固たるものはなく、問いかけるその先々で、それまで確かだと思ってきたものが次々と崩れてゆく。過去の足跡を尋ねてみても、それは文字通りの足跡(あしあと)だけであった、そこにはもはや、というか既に、私はいない。今なら写真や動画など自分の過去はむかしと比較にならないくらい大量に記録され、何十年も前の自分がスクリーンやパソコン画面から今の自分に笑いかけてもくれようが、しかしその「私」はこちらの問いかけに答えてくれるわけではない。
 生きるとはこの広大無辺の宇宙の中で己れの位置を定めようとする試みであると言えようが、それはあくまで「試み」であって、確かな位置を定めることはかなわない。だから自分探しのテーマは、哲学のみならず文学の永遠のテーマであり課題であり続ける。ウナムーノの『小説はいかにして作られるか』のテーマも、結局はこの問題へのアプローチの一つであった。
 以前、その『小説はいかにして作られるか』を読み解くためのヒントを他の小説家に求めようとしたことがあった。そのときぜひ読まなければと思って求めた本があったはず、と考えて、ようやく記憶の底から浮かび上がってきた。十八世紀前半に活躍した南アイルランド出身の作家スターンの『トリストラム・シャンディ』とウナムーノとほぼ同世代のイタリアの作家・劇作家ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』である。スターンのものはすぐ側の本棚の隅っこに見つかったが、ピランデッロの方は、確かイプセン誕生百年祭記念出版とかで、昭和3年、第一書房から全44巻で出されたものの中に入っていたはず。
 いま暗く寒い下の部屋から持って来た。ガブリエル・ダヌンチオとセム・ベネェリと一緒の第三十五巻南欧篇に岩田豊雄の訳で入っていた。この全集、古書の世界では数多く出回ってるのか安い値段で全巻手に入ったものだが、演劇好きの人には垂涎ものかも知れない。
 両著とも時間を見つけて読むつもりだが、それにしても昨夜話題にした『牡猫ムルの人生観』にしろ(とうとう注文しました)、革新的な手法が意外と古い時代から試みられていたのは驚きである。つまり現代の我々がこれこそ革命的・前人未到の手法と思ったものでも、すでに先駆者がいるということである。「温故知新」は文学の常道ということだろう。
 それにしても寒い一日だった。美子の手を代わる代わる手で温めながら夜ノ森公園を散歩したが、ところどころ氷が張っていた。美子の手袋は五つか六つあるのだが、五本の指をきちんと入れるのに手間取るだけでなく、注意していないとすぐ脱いでしまうので、むかし子供用にあった親指と四本の指の二つだけ割れていて、毛糸の紐で結ばれている手袋(どうも説明が難しい)を探しているのだが、どこにも売っていない。明日当たり、少なくとも紐だけつけてやろうか。今晩は歯を磨くとき、あまりに物分りが悪いので、きつく叱ってしまった。(叱っただけ? ものは言い様だね。それだけだったらそんなに気にしているのはおかしいぜ)。明日は叱らない、いや怒らないようにしたい。そうなりますように。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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