私の記憶力もまだ捨てたものではなかった。やはり中野美代子が『ユリイカ』1976年4月号の「特集 魯迅 東洋的思惟の復権」収録の「学匪派ロジン学 武田泰淳氏『L恐怖症患者の独白』をヒョーセツする」というかなり型破りの、というか八方破れの文章の中で阿Qとドン・キホーテに触れていたからだ。
中野美代子は1933年生まれの中国文学者で北大教授だったが、現在は退官して著述活動に専念しているという。彼女の本は何冊か貞房文庫にもあるが、こんな戯文も書くとは知らなかった。しかし彼女の気持ちもなんとなく分かるような気もする。つまり魯迅はあまりに神格化されていて、ロジンとくれば学者・専門家はきまって「魯迅に学ぶ」とか「魯迅のうけとめかた」などと生真面目な議論しかしないことに美代子氏はいらだっているようなのだ。
だから彼女は、魯迅が一生指一本触れなかった正妻朱安(チューアン)が終生魯迅の母に仕えたのに、いまではその消息はまったく知られていないこと、一方の許広平(シューコワンピン)が魯迅未亡人として文化大革命のあとまで威張っていたこと、そして魯迅が許広平と出会う前に許羨蘇(シューシエンスー)という若い女とねんごろな仲であったことなどにあえて言及している。
「ロジンにだって、あたりまえのことだけど、女のこのみはあるんだからね。ただ、わたしは、ロジンをあがめているひとびとが、ルーシェン学のせんもんかをもふくめて、この事実をひとつのなぞとして、あるいは、ふるい因習にたいするロジンのくるしみとしてだけしるしているのには疑問をもつね」
このあたりの論法、もしかして美代子氏は男かな、と思わせるほどきっぱりしていて、なるほどと首肯せざるをえない。
いやいや私が探していたのはそんな問題ではなかった。件の個所はこうなっている。すなわち一つ目は、魯迅は阿QのQの書体がもう一つの書体、つまりOの右下にちょうど尻尾のように垂れ下がっている書体にこだわった。つまりそれで辮髪を表したかったらしい。これも納得。
さてもう一つが肝心な指摘である。阿Qの名をどう書くかで魯迅はことさらこだわっている個所を問題視しているわけだ。つまり主人公のことをひとは阿Queiと呼んでいるが、それが「阿桂」なのか「阿貴」なのか分からないので、とりあえず「阿Q」とする、と言っているのだが、実は「桂」も「貴」もkueiであり、ピンイン方式ならguiであって、イニシャルはKかGになる。要するに魯迅は主人公の名をどうしてもQ、つまりドン・キホーテ(Don Quijote)のQに、しかも辮髪を垂らしたQにしたかったのだ、と結論づけている。
なかなか説得力がある。魯迅はドン・キホーテに関する文章を二つほど書いていて、いずれも見事なものらしい。私にはその記憶はないが、まだ読んでいない文章かも知れない。そのうち探し出すつもりである。
そして美代子女史はもう一つ重要な指摘を行なっている。それは魯迅にとって進化論とかマルクス主義はほんの上っ面に表れた思想の表皮に過ぎず、もし彼の思想ということを問題にするなら、それはマニエリスムではなかったか、という指摘である。
「ロジンはアナグラムにこって、DonだのQuiだのいじくりまわしているうちに、阿Qというルンペンがひとりでうごきだしたのさ。ことばそれ自体にしがみつくことを、わたしはいま、とりあえずマニエリスムといっておいたのさ」
うーん、このおばはん、なかなか鋭いことを言う。魯迅読解の風穴を開けてくれたことは間違いない。少なくとも『阿Q正伝』の新しい読み方を示唆してくれた。