愛はこのところほとんど毎日、夕食後二階に上がってきて映画を観る。といって観る時間は母親が迎えにくるまでのせいぜい十五分。つまり同じ映画を前日の終わったところから十五分、そして終わりが来たらまた始めから、飽きもせず繰り返し繰り返し観ているのである。その間、儀式のようにきまってすることがある。クリープの瓶を持ってきて、小さじ二杯を湯呑みに入れ、おじいちゃんにポットからほんの少量のお湯を注いでもらい、それを混ぜながら小さな専用の椅子に坐って鑑賞する。さらにそのとき、おじいちゃんから小さくちぎったスルメをもらってしゃぶることを忘れない。
ところで映画は、たしかWOWOWから録画した『小さな赤い花』という中国映画だ。中国第六世代を代表する張元(チャン・ユアン、1973年生まれ)が監督した2006年中国・イタリア合作映画。全寮制の幼稚園を舞台とする王朔(ワン・シュオ)原作の映画化である。解説によると、過剰な教育政策に潜む矛盾を鋭い視線で描き出した作品で、2008年ベルリン国際映画祭で国際芸術映画評論連盟賞(CICAE)を受賞したとある。
もちろん愛はそんな視点から映画を観ているわけがない。同じ年頃、というか彼女の憧れである幼稚園のお兄ちゃんお姉ちゃんの寮生活の様子がただただ面白いのであろう。いまでは園児たちが次に何をやるか、先回りして自分もやったり、主人公の四歳の方槍槍(ファン・チアンチアン)や南燕(ナン・イエン)・北燕(ベイ・イエン)の中国語を大声で真似したりする。おじいちゃんが真似するとダメ出しをする。
おじいちゃんも初めのうちはお付き合いで観ていたが、毎日観ているうち、この映画がなかなか面白いことに気づき始めた。ともかく40名ほどの園児たちの日常が面白い。たぶん今は田舎でしか見られないと思うが、男の子は例のお尻の割れたズボンを穿いていたり、コンクリートの長い溝にまたがって園児たちが集団で排便をするところなど、監督としては中国の古い慣習を批判するつもりで映像化しているのかも知れないが、あれはあれでなかなか合理的だし、和式便所がそうであったようにある意味衛生的でもある。
古いお寺を改良したと思われる古くて大きな建物も、たぶん旧体制や陋習を象徴するものとして使われたのかも知れないが、映像化されると実に幻想的で、ときに美しくさえ見える。題名の「小さな赤い花」にしても、先生の命令に忠実な良い子に与えられる褒賞ではあるが、これとて夢幻の世界に誘う手形でもある。
さてこの映画は幼い愛の脳裏にどのような映像を刻んでいるのか。いつか成長したときに話してもらいたい、などとじいさんは今から楽しみにしているのである。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 【再掲】「サロン」担当者へのお願い(2003年執筆) 2023年6月2日
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日