暫定的解説


   ある私信――『モノディアロゴスⅣ』への暫定的解説として

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 拝復
 お手紙とともに『モノディアロゴスⅣ』をお送り頂きました。ありがとうございました。また「急展開」による『青銅時代』の目下の事情についても知るところとなりました。まずこのことについて言えば、なにしろ「小川国夫」という項目を掲げる百科事典・文学事典のどれにも、現在もそして将来も必ず記載される筈の同人誌の名前ですから、その継承についてはSさんという方の言われる通りなのではないでしょうか。やけくそでも何でも、富士貞房氏が引き受けることになったことを、結果として良かったと感じます。
 さて、『モノディアロゴス』ですが、もう第Ⅳ輯が出たのですね。出版自体は何でもないことなのでしょうが、書き続けることが大変な技であるというのは、とことん深く理解しているつもりです。『モノディアロゴス』を、かりに日録・日記と同じものだと捉えても、これまでのものだけで既にその柄がひときわ大きいことは明らかですし、またIT時代の自己表出のジャンルとして捉えても、既にその先駆けとして規範となるものを残しつつあります。さらに、「精神の運動」(石川淳風の言い方で)として捉えた場合には、これこそ最大の運動量を要求するもので、書き手にも読み手にもすこぶる効果の大きいエクササイズであることは言うまでもありません。この夏頃には第V輯が出来そうだとのことですから、もはや止めることが出来なくなった大事業と言うべきです。それは小生にとって大いに楽しみなことです。
 「定価一円の怪」という話がありました。価格決定のメカニズムは、需要曲線と供給曲線の交点で決まるという経済の大原則が、今では大きく変わってしまいました。右に述べたような『モノディアロゴス』の、小生が素朴に信じている「計り知れない価値」は、専門家にも評価が困難な筈です。そこで一切の価値の付与は、顧客に委ねてしまおうという「名誉の定価一円」ということではないかと受け止めています。あるいはアナログでもディジタルでも読める状況にあるものは「一律一円」といいうことかも知れません。プロバイダーのヴォランティア的なサービスシステムであることを念じています。
 このところ、例の『詩都』の原稿締め切りが迫っているせいで、小生が今回の『モノディアロゴス』を楽しませて頂くのは少し先になります。とは言いながらもつい拾い読みをして、釣り込まれてしまいます。例の「ペソア詩」については、部分コピーをお送り頂いた時に強く印象に残りましたから、その前後を読むに至りました。「ぽっかり開いた空洞」の項で、「私のドアを」の詩について、平沼氏が「信仰がついえてしまった近代人の《信仰の回路》をこのように<虚ろ>に証する、死せる魂の挽歌」と受け止める旨を、手紙で書き送ってきたとありました。生来の詩人たる素質を有すると思われる平沼氏のこうした言葉には、大いに感心するところがありました。なるほど富士貞房氏が気脈を通じ合っている人だとも感じました。小生はペソア詩についてのお二人のやりとりを読んで、「お二人が取り上げた三つの詩のことだけに限りますが、例えばモダニズムに対する違和感あるいは不安というような文脈で読むと、実に分かりやすくなります。従ってそれぞれの翻訳は、その気分的なものを、ぼんやりとでも訳出することがポイントだと感じましたが、どうでしょうか」と貞房氏に申し上げましたが、平沼氏の言葉は、そうした小生の舌足らずの表現を見事に言語化してもらったと感じています。
 話題が急転しますが、小生の友人に『モノディアロゴス』の熱心な愛読者がいます。その彼が、第Ⅲ輯について「<吉本隆明と老い>の段で、加藤周一は<老いについて語っていない>という、<どこかの誰か>の話を引いている個所がありました。富士氏はその後に読んでいることとは存じますが、加藤周一氏が朝日新聞に<老年について>と題して書いている記事を切り抜いていましたのでお送りします」と手紙をくれました。彼のその切り抜きは、貞房氏がその段を書いた十ヵ月程後のものですから、貞房氏自身もあるいは切り抜いているかも知れませんが、我が友人の意を体して、貞房氏に念の為お送りします。貞房氏は、どこかの誰かが「サルトルとボーヴォワールがそうしたように加藤氏にも老いについて書いて欲しかった」と言ったと書いています。老いについてサルトルがどんなことを書いたか知りませんが、ボーヴォワールの『老年』は、高齢者の生涯学習の講師だった時に、小生が頻繁に参照したものでした。「人生の後半のおよそ十五年程を、敗残者のように過ごさなければならないというのは、間違いなく文明の破綻を示している」というような意味の言葉を覚えています。切り抜きの話に戻れば、切り抜き記事の最後の部分は、加藤周一ならではの見事な言説ではないでしょうか。
 一昨日の十六日は、確定申告の初日でした。ここ数年は申告内容が極めて単純になり、金額もわずかなものになりましたから、せめて税務署の初日の収受印をもらって、国民の義務の履行を形にすることを趣味にしています。そのために一昨日も直接税務署に赴きました。散歩を兼ねて足を伸ばし、馴染みの蕎麦屋に入りそば焼酎で一杯やりました。そうした無為の一日は、いささかの反省を迫るものですが、その反省は天下国家の反省に広がります。そこに意味があると自己弁護をしながら、ともかく天下泰平、平穏無事で過ごしています。
 以上、いち早く『モノディアロゴス』をお送り頂いたことに心からお礼を申し上げつつ、同書の更なる継続と発展をお祈りいたします。      敬白

    平成二十三年二月十八日               ■■■■


※ 暫定的と書いたのは、文中、■氏がもう少し先に全体を読むつもりと書いておられるのでそう書いたまでで、これはこれで格好の解説となっている。幸い(?)氏はEメールもインターネットもされていないので、明日から作る『モノディアロゴスⅣ』の第二版から、許可を頂かないまま巻末に掲載させていただくつもりである。もちろん事後承諾はいただくが。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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