古北口の秋

午後、思いがけない人から電話があった。長崎在住のI・Uさんからだ。先日、旧満州時代の写真のコピーを二枚ほど送って、お暇の折にでも写真の中の人について教えてもらえないか、と依頼していたことへの返事だった。手が不自由で字が書けず、娘さんに代筆を頼んでいるのだが、埒が明かないので電話にしたとのことである。写真とは、万里の長城近くの古北口というところに遠足をした際の集合写真と、お祭のとき神輿のまわりで撮った、やはり集合写真である(いずれもホームページの「家族アルバム」の2に掲載されている)
 古北口への遠足の写真には、背後に万里の長城が見える丘の上のようなところで、林校長先生と千代先生(ばっぱさん)に引率された十七人の学童が写っている。いや正確に言うと、千代先生の横で指を銜えている男の子(私)は就学前である。学童の中の何人かは林校長先生の子どもだと思う。で、今日教えてもらったとき、あいにく写真を見ないまま聞いていたので、I・Uさんがどこか、そして最近亡くなられたというM・Sさんがどこか、実ははっきり確認できなかったのである。そのうち写真を見ながら再度尋ねてみよう。
 遠足の季節は昭和十九年秋、つまり前年の十二月に父が亡くなり、母が小学校の先生になってからの写真である。もうどこかで書いたように思うが、匪賊(実は抗日パルチザン)が出没するところへ、よくも出かけたものだと思う。M・Sさんは亡くなられたそうだが、他の子どもたちのうち、生き残っているのは果たして何人だろう。写真を見ていると、赤い幟や笛・太鼓の響きがぼんやりと浮かび上がってくる。たしか村祭のようなものを見に行ったのではなかったか。
 もう一枚の写真のときのこともぼんやりと覚えている。生まれた初めて神輿を担いだはいいが、背が小さいのでやたら振り回されて子どもながら実に怖かったことが記憶に残っている。神輿のいちばん前で、饅頭を左手に持って立っているのが私、そして手前で団扇みたいなものをもって胡坐をかいている横山エンタツ似のおっちゃんがI・Sさんのお父さんである。彼は終戦時、警察官であったためシベリヤに抑留され、帰国できたのはずっと後になったはずである。
 せっかくここまで生きたんだから、健康に注意して、みんなの分長生きしましょう、と言って電話を切ったが、いつか長崎を訪ねて再会するようなことがあるのだろうか。自分のことなのに、先のことは何ひとつ分からない年齢になってしまった。退職したら、ばっぱさんに倣って、日本各地を旅しようか、と美子と語っていたことを思い出す。ままならぬのが人生か。

古北口で
父の亡くなった翌年(1944年)の秋、遠足で行ったときの写真。母ちゃん先生の側で指を咥えているのが私。後方にあるのは、もちろん万里の長城である。
灤平神社の秋祭り
昭和19(1944)年11月、記憶力が無い私としては珍しく、神輿をかついだときの感触、背が小さいのでただただ振り回されたという苦しさを覚えている。ちなみに私は、右端で饅頭を手に持ってる子である。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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