籠城生活雑感(四月四日、震災後25日目)晴れ
午後たまたま目にしたテレビには、原発立地市町村の長たちが松下忠洋副大臣(何大臣か知りません!)に対し、原発の安全対策を早急に実施するよう要望し、立地市町村への風評被害を防ぐことや防災体制の見直しなども求める場面が映っていた。陳情の形をとるしかないのかな、と複雑な気持ちで画面を眺めていた。このところ、時おり頭に浮かぶのは「くに」とは何だろう、という疑問である。いや、私自身の考えは相当以前からはっきりしている。2003年行路社刊の『モノディアロゴス』の「愛国心」と題する文章にこう書いている。
「私自身いろんなところで主張してきたが、「くに」には大きく分けて三つのレヴェルがある。国家(state)と国民国家(nation)と国(country)である。国家とはたとえば国連加盟時にその資格として考えられる法的概念である。ここでは国土も国民もいまだ個的特性を持たぬ冷たい抽象的レヴェルに留まっている。国民国家に来て初めて国民(民族)の顔が見えてくる。この二つの概念にずれがあることは、南北朝鮮を見れば分かる。つまり民族としては一つだが、国家としては分断されている。自分を育んでくれた大地、海、そして自分の中を流れる懐かしい父祖の血を表す言葉こそが「くに」なのだ。しかし残念ながら日本語そのものが混乱していて、英語のカントリーと等価の日本語が無い。たとえば英語圏の人に向かって、あなたの国はどこですか、と訊くとき、絶対にステート(アメリカ英語の州ではない)とかネーションとは言わずにカントリーと言うだろう。」
これに付け加えるなら、三番目のカントリーはスペイン語でパイース(país)と言うが、ここから風景という言葉パイサヘ(paisaje)が出てくる。さらに言うなら愛国心は英語でもスペイン語でもパトリオティズムだが、これはラテン語のパーテル(父)から出た祖国という美しい言葉パトリア(patria)から派生する。簡単に言えば、本来の愛国心とは国家に対する忠誠ではなく、父祖の地そして血への懐かしく、そして愛情あふれる思いなのだ。
私は法学者でも言語学者でもないが、今述べたことは間違っていないはずだ。
さて今回の大震災で問われている大きな問題の一つが、私たちにとって「くに」とは何か、という問題であることは確かである。これまで述べてきたことからも明らかだが、私たちにとって「くに」は現政府でも現行政でもない。私たちにとって、真の「くに」は先祖たちの霊が宿るこの美しい風土(あえて国土とは言わない)であり、そしてそこに住む人間たちなのだ。日本「国家」は、浜通りと呼ばれるこの美しい海岸線を原発銀座にしてきた。つまり、「国家」にはいつも生きている人間の顔が見えない。大本営の作戦地図にも、今回の20キロ圏30キロ圏にも人間の姿は見えないのだ。
「くに」は今回、地震・津波という甚大な自然災害を被った。これは人災の部分を含みながら、しかし結局は自然災害である。しかし原発事故は明らかに、どういう弁明も空疎に響く明らかな人災、国家エネルギー政策から生じた紛れようもない人災そのものなのだ。
今回の大震災は、政府の対応も報道の仕方も、この自然災害と人災が一緒くたにされている。それが象徴的に現れているのが、ここ南相馬市かも知れない。これまで何度も言って来たように、ほんとうの被災地の人たちには申し訳が立たないような、愚かな行政の、現状把握をしないままの愚かな指示の結果起こっていることなのだ。
「必死に生きる」こと以外はすべてにおいて素人そのものの七十一歳の無力な爺さんが怒っております。頭脳はおそらく平均並みかそれ以下の一人の爺さんが、お上や科学エリート集団をば「トント」呼ばわりしておりますです。
ケ・トント! さ、皆さんもご唱和願います、ケ・トント!!!
※ちなみに今日午後八時現在の例の数値は、0.78マイクロシーベルト/時です。たぶんこれまでの最低値でしょう。