人間をどう捉えるか、という難しい問題を考える際にいつも思い出すのは、或る映画の極めて示唆的な一場面である。グレアム・グリーン原作、キャロル・リード監督の映画『第三の男』(1949年、イギリス映画)の有名な場面、すなわち死んだと思った旧友(第三の男、オーソン・ウェルズ扮する)が悪質なペニシリンの横流しでボロ儲けをしていることを知ったアメリカの三文作家(ジョセフ・コットン扮する)が、ウィーン郊外の遊園地の、観覧車の中でその旧友を問い詰める場面である。粗悪なペニシリンによって大勢の子供たちまでが犠牲になって死んでゆく事実を突きつけられて、第三の男が答える。
「犠牲者? 感傷的になるなよ。あそこを見てごらんよ」と、彼は窓越しに、観覧車のはるか下で黒蠅のように動めいている人間たちを指さして、言葉を続けた。「あの点の一つが動かなくなったら――永久にだな――君は本当にかわいそうだと思うかい? もしも僕がだね、あの点を一つとめるたび二万ポンドやると言ったら、ね、君、ほんとうに――なんの躊躇もなく、そんな金はいらんと言うかね? それとも、何点は残しておいてもいいと計算するかね?……」(小津次郎訳を一部変えた)
いまその場面を思い出したのは、今回の原発事故以後の政府やら東電やらの対応を見ていると、実は彼らに被災者たちの顔が見えていないんじゃないかと思えることが度重なったからである。もちろん会ってもいない多数の人間のいちいちの顔は見えるはずもないが、しかし人間には想像力というものが備わっているはずだ。簡単に言えば、彼らにその大事な想像力が著しく欠如しているのでは、と危惧するのである。
政治家は小説家でも芸術家でもないと言うのか。いやいや政治家に限らず、人間が人間として人間らしく生きてゆくためには、想像力は必須のものである。と言うことは、多数の人間の生活だけでなく、ときにはその生き死ににも責任を持たざるを得ない政治家に、想像力は取り分けて必要だということになる。もしかして昔の修身の教科書に出ていたかも知れないが、柄にもなく仁徳天皇作と言われるこんな歌を思い出す。
高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)
支持率を気にする政治家は多いけれど、民の煙をほんとうに気にする政治家はあまりにも少ない。もちろんこの場合の煙は、民の暮らし向きだけでなく、まさに荼毘に付されて立ち上る民の煙すなわち命そのものをも指す。
第三の男の理屈は根本から狂ってはいるが、論理的にはまことに正確である。つまり視点をどこに置くか、によって人間理解がそれこそ大きく変動するのである。たとえば、これまた映画の話で恐縮だが、昔の西部劇に登場するインディアンは射的場の駒以外の何物でもなかった。つまり視点は一方的に白人開拓者に固定されていた。ハリウッド映画の中でインディアンが先祖伝来の土地を略奪される犠牲者の顔に見えてくるには長い年月を必要とした。つまり一時期まで映画製作者にも観客にも、人間理解のための想像力が決定的に欠けていたわけだ。
人間理解にとって、時には相手の側から見る、相手の立場に立ってみるという視点の移動も大切だが、もう一つ重要なのは、人間理解には縮小も拡大もしてはならないとうこと。つまり人間理解には等身大の理解しかない、ということである。
第三の男の場合のように、等身大の人間が黒蠅に縮小されること、あるいは銃の照準器の中の正に点になることによって、殺人や戦争や、そして政治的愚策が生まれるのである。拡大の例としては、権力やお金によって視点が曇らされ、相手が異常に大きく見えることであろうか。
ついでに思い出したことがある。それは小林秀雄の言葉で、自分には鋭い批評など怖くもなんともない、ただ一つ怖いのはお袋の眼、なぜなら自分を拡大も縮小もせずありのままに見る眼だからだ、といったような言葉である。さてどこにあった言葉か今は思い出せないが、なぜか気になる言葉だった。