非常時の戦い方

午前中、郵便受けを見たら震災後初めての新聞が入っていた。以前のように早朝の配達だったかどうかは知らない。およそ50日ぶりの新聞である。常磐線は動いていないはずだから、陸路福島市から運ばれたのであろうか。クロネコや飛脚に続いて日本郵便も五日前から配達を始めたので、陸の孤島という不名誉な呼称はもう使われなくなるであろう。新聞の配達はともかく、郵便物や宅配便の復旧が長いあいだ滞っていたことについては、言いたいことが山ほどあるが、今は疲れるのでやめておく。しかし今日も郵便物が十通ばかり紐で括られて入っていた。たぶん郡山あたりでフン詰まりを起こしていたのであろう。やってくれるよ日本郵便さん。
 花曇の中、今日も夜ノ森公園に行った。妻の歩き方は手を引いてやってもずいぶんと遅くなってきたが、しかし一時期のように体を傾げることはなくなった。脳内の運動をつかさどる部分の収縮が一段落したのであろうか(おや、ずいぶん恐ろしいことを言っている)。小さい時からかけっこは得意で、数年前までは一緒に走っても私より早かったなんて、まるで夢のようだ(とは変な表現だけど)。遅くてもいい、歩ければ御の字。どうか最後まで(?)歩けますように。
 ゆるやかな坂道を駐車場の方まで降りていくと、ちょうどどこかの店の宣伝カーが出てゆくところだった。あわてて看板の字を読むと、4日つまり明日からヨークベニマルが開店するらしい。残留市民のために早くから店を開いていた個人商店や弱小スーパーに較べると、大手の方が(ヨークベニマルが大手かどうかは知らないが、少なくとも福島県では最大のスーパーであることは間違いない)動きが緩慢だ。
 言いたかないけど(あゝやっぱり言うんだ)、日本郵便にしろヨークベニマルにしろ、平常時用の社員教育はしてきたと思うが、非常時用の教育はまったくなされてこなかったことは明らかである。たとえば日本郵便の場合、溜まってゆく郵便物を前に、総務省通達やら会社内規に幾重にもしばられて、郵便物を輸送し届けるというもっとも重要な責務をなおざりにしたことは誠に遺憾である(なんて政治家みたいな言葉だが)。たとえば支店長なりが後からお咎めを受けることも覚悟の上で、スタッフが少なければ年賀郵便のときのようにアルバイトを雇ってでも、せめて通常業務の一部だけでも続けていたとしたらどうだろう。事態が収まったとき、世論に押されて、彼は賞賛されこそす咎められることはまずないはずだ。
 海外で活躍しているサッカー選手の応援メッセージが連日のようにテレビから流れてくる、日本の強さは団結力だ、と。そう、平常時や復興時にチーム力は物言うであろう。しかし災害襲来のような非常時には、団結力より、個人の判断力・実行力こそが物を言う。たしか以前も使った喩えで申しわけないが、災害時は本隊から取り残されたプラトーン(小隊)と同じ状況である。つまり小隊長、いや時には班長、いや時には正に一兵士、の判断力と実行力だけが頼りとなる。
 小隊長で思い出したが、今回避難するか残留するかの状況の中で、かなり多くの家庭では母ちゃんの発言力が父ちゃんのそれを上回ったらしい。俺は留まっぺと言ったけど、母ちゃんがどうしても避難すっぺ、と言うんで、仕方なく避難しただ、というケースが多かったようだ。いざというとき、女性の方が腹が坐っていると思っていたが、今回は逆だったらしい。すると双葉町のおばあちゃんや楢葉町のおばさんは例外的ということになろうか(いやなんだかんだ言っても、総体的に見れば女性の方が強いことに変わりはない)。たしかに平常時にあっては、母ちゃんの方が強いのは家庭円満の要諦かも知れないが、非常時にあってはやはり父ちゃんに頑張ってもらわなければならない。
 それはともかく、大型スーパー再開で、たぶん苦心惨憺の末の命名であろう緊急時避難準備区域は、政府側の意に反してますます復興準備区域の様相を強めてきた。そうした流れを微力ながら応援してきた私としては、事故そのものの一日も早い終息をさらに強く願わざるをえなくなってきた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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