ちぢこまるの愚

十和田から昨日の姉弟の再会の写真が送られてきた。また叔父自身からも途中数度にわたって喜びの電話報告があった。よほど嬉しかったのか、もう思い残すことはない、とまで言っていたが、もちろん叔父にはさらに長生きしてもらわなければならない。ふだんから叔父は、百三十歳くらいまで生きると豪語しているが、医者の従弟から診ても肉体的に七十歳台の若さを保っているらしいから、それもあながち不可能ではないかも知れない。いずれにしてもなんとも頼もしいというか羨ましい叔父だ。
 しかしその叔父が言うには、姉さんは例の新聞記事に写っていたときと較べると格段に弱っていると見えたらしい。ただこれについては、以前も言ったとおり、確かに十和田への移動は老躯には堪えたろうが、長男のところに、しかも曾孫と一緒に移ったのであるから、たとえ肉体的には無謀だったとしても、もって瞑すべし、と本人自身思っているに違いない。
 老母の場合はそうだとしても、しかし今回の騒動で、たくさんの老人や病人が無用な移動によって、命を落としたり、深刻な健康被害を受けた、いやまだ受け続けている。それについては、なにか改善策が打ち出されたのであろうか。このブログで震災後すぐのときから、無用な搬送ではなく、住み慣れた施設なり病院でそのまま生活すべきだと主張したが、それについて何か施策が、つまり具体的には元の施設や病院に戻るなどのことが行なわれたのであろうか。
 たとえばばっぱさんが入っていた老人施設から隣町の施設に移動させられたあのおばあちゃんたちは、現在は戻ってきているのであろうか。うっかり調べることをしないでいたが、明日あたり電話で訊いてみよう。
 ところで昨日の復興準備区域宣言については、いろんな人から賛成の意見を頂いたが、あれに付け加えなければ、と思っていることがある。それは私たち自身がそう思うだけでなく、政府も早急に無意味な同心円区分を修正し、たとえば原町区の緊急時避難準備区域なる指定を撤廃することだ。もし国としてその修正に応じないというのであれば、昨日のように市長が実質的な復興準備区域宣言をすることである。
 現在のような状況で何がいちばん悪いのか、と言えば、すべてにわたって中途半端であることだ。それについては、昨日の三宅さんのコメントにあった「閾値(いきち)」という言葉が気になる。それを素人らしく解釈すれば次のようなことだろうか。
 閾値とは「特定の作用因子が、生物体に対しある反応を引き起こすのに必要な最小あるいは最大の値。限界値あるいは臨界値ともいう」。つまり現在の混乱は、放射線量の閾値がだれにも分からないからこそ起きているわけだ。そこで思い出すのは、東電の元会長が、微量な放射線はむしろ健康にいい、という暴論を吐いたこと、それに対して腹を立てたが、後から考えたのは、彼の言っていることそれ自体はもしかして正しいのでは、ということである。
 言い忘れた、あるいは付け加えなければ、と思っているのは、私たちが置かれている状況でなにがいちばん悪いのか、と言えば、中途半端に暮らしていることである。もっとはっきり言えば、全てにわたって萎縮していること、まるで息をつめたように生活していることである。収束の可能性がいまだ明瞭でなく、かなり長期化すると考えた場合、もっとも注意すべきはストレスを溜め込むことである。特に私のような老人にとって(実は口ではそう言うが、そして肉体的にはそう認めざるを得ないが、自分のことをまじめに老人と思ったことはない)、これからの一年や二年(あるいはもっと?)は、残り少ない余生の中の実に貴重な一年であり二年である。
 つまり誤解を怖れずに言うなら、本来「生きる」とは、誰かのお墨付きがあるからではなく、それこそ絶えざる選択、もっと露骨に言えば究極の自己責任のもとの行為なのである。今回の大震災ではしなくも見えてきた峻厳な真理もまたこの「生の選択」であったはずだ。津波の激流の中で生還を果たした人たちの行為に、それは劇的な形で顕現している。もちろん自由な自己選択がかなわぬ子供たちのためには、その選択が考えられる限りもっとも賢明なもの(心配のし過ぎとは違う)でなければならないのは言うまでもないが。
 要するに、どこか遠いところに行くのであれば別だが、ここで生き続けることを選択したなら、萎縮しちぢこまって生きるなんてのは愚の骨頂だということである。原発ウォッチングは誰かにまかせて、自分はもう原発や放射線のことは考えないで、日々の生活を大事に大事にすることである。貴重な時間を無駄になぞしてたまるかーっ、ということだ。もちろんこれは、老人たちだけだなく、全ての人にも当てはまることだが。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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ちぢこまるの愚 への2件のフィードバック

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    Sさん、今回は睡魔に襲われながら、朦朧とした頭で書き綴った(いつもそうだという声もありますが)ものでしたが、意に満たないところを補って読み解いてくださいました。有難うございます。最後の部分、もしかしてさらに意味不明になったかも知れませんが、蛇足を加えましたのでお暇のときにでもご覧ください。

  2. 三宅貴夫 のコメント:

    今日読んだ朝日新聞社の最新「アエラ」5月30日号に放射能低線量長期被曝のことを詳しく報じています。
    が、結局のところ、よくわからないと書いた記者も不完全燃焼状態です。
    また記者は「よくわからないが、少なければ少ないほどよい」とも言っていない。
    政府が根拠としている20マイクロシーベルト未満を勧告しているカナダの本部があるNGOの国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection :ICRP)の数値も根拠がはっきりしないらしい。
    先にお伝えした関西の放射線医学の専門家はこの委員会のメンバーだったそうですが、彼の話によると、この委員会は「少なければ少ないほどよい」派が主導権を握っているらしいとのことです。
    アエラ最新号で強調しているが、がんのリスクを高める因子の多様性と煙草と「飲食習慣―飲酒、塩分など―」が放射線よりはるかにリスクを高めていることです。
    もっとも、福島県民にしてみれば、「招かざる客―放射線―」ですから無いにこしたことはありませんが、既に降り注いでしまし、これからも降り注ぐかもしれない、さらに超長期に放射能と同居しなければならないだろう現実のなかで、放射線と生活の両立をどう考えるかが課題と思います。
    簡単には答えは出せないと思いますが、いつまでも放置するわけにはいきません。
    公的な場で専門家と市民を交えて議論すべきではしょう。根拠が曖昧な政府の言いなりにならないためにも。もっとも東電を非難するだけの場になる恐れはあります。
    もっぱら若年、中年の方々が危険のなかで原発暴走を阻止すべく懸命に働いておれれますが、作業環境が高い放射線量のため、仕事がはかどらないとのことです。
    (この人たちをアメリカのメディアが「50人のさむらい」と勇気ある行動を称賛したと聞いていますが、実際は50人よりはるかに多くの人たちですが、これは旧約聖書の話によるのでしょうか、教えてください)
    そうしたなかで東京の70歳代の山田恭暉さんという方が呼びかけている60歳以上で構成する「暴発阻止隊」は興味深い。年齢と放射線の影響を考えさせるヒントを与えている。
    65歳の私は認知症の妻の介護中ですが、そうでなければ安全基準値を無視してでも参加したい。もっとも技術力はなく、体力だけですが。

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