いつごろからだろうか配達される新聞にかなりの数のチラシ広告がはさまるようになったのは。震災前だったら、それらのチラシはただわずらわしいもの、紙の無駄遣いにしか思えなかったのだが、不思議や不思議、震災後はそれらチラシが懐かしい友(ちょっと大袈裟か)のように見え出したのである。一週間ほど前にはスーパーの「おすすめクーポン 全部使えば1,320円の節約!」が入っていた。50品目のクーポン券、たとえば寿司コーナーの「東北産大豆ひきわり納豆巻50円引き」のクーポン券。
別に納豆巻を買うつもりはないが、要するに南相馬の市民生活はほとんどが震災前に戻りつつあるということだ。ところが「緊急時避難準備区域」という呪いがいまだ解けずに重く、暗くのしかかっている。たとえばここに市長宛の「私立中央図書館・鹿島図書館を早急に再開することに関する要望書」がある。要望者は「としょかんのTOMOみなみそうま」代表・鎌田孝子さん。最後のくだりを引用しよう。
「市役所の皆さんは災害対策で日夜を分かたず、そして県内外にまで出向いて奮闘されているのは重々承知しているのですが、こういうときこそ市民の情報提供の場を提供することが市としての大事な仕事であるし、またこういう大変なときに市民のために図書館を再開したということは南相馬市民にとっては、誇りともなり市復興のエネルギーにもつながると思いますのでぜひ、両図書館の再開をお願いする次第です」。
実に真っ当な要望である。出されたのは先月の29日、詳しい経過は知らないが、結局この要望は聞き届けられなかったそうだ。理由は市の職員の人手不足ということらしいが、私の推測では、そして衆目の認めるところ、例の呪いのせいである。つまりほんらい避難準備区域では市民たちが生き生きと生活してはいけないのだ。日本郵便が総務省の縛りを解いてかなりの日が経つが、肝心の地方行政の中核は政府通達の呪縛からいまだに解けていないのだ。だから市民は、まるで出戻り(ちょっと差しさわりがある喩えかも知れないが)のように、戻ってきてすんませんといった風に、肩身の狭い生き方を余儀なくされている。
外国の報道機関に対しては、中央政府糾弾の旗手だった市長までが、いまやこの縛りの忠実な実践者となっている。つまり市民がようやく元気を出して市の復興に乗り出そうとするその足を引っ張っているのだ。政府の覚えが悪くなるのを極力避けたいのであろうか。しかし氣―つけなはれやー、市民はこのことを忘れませんぞい。任期途中で辞めさせようなどと、まるで中央政府の愚挙を真似するつもりはないが、次の選挙にはしっかり評価しまっせ。
中央政府にしろ、わが南相馬の行政機関にしろ、或る決定的な間違いを犯している。彼らは二言目には、これら全ての指示・命令は国民の、市民の命を守るためだ、と言う。しかし命より大切なものがあることがまるっきり分かっていない。えっ命より大切なもの?そんなもの無いじゃないか。
それがあるんだなー。ここから哲学教室めいた話になるが、なにそんなに難しい話ではない。命って英語でなんて言う? ライフ、そう。しかしそのライフを辞書で引いてごらん、大きく分けて二つの語義にぶつかるから。すなわち生物学的な意味の「いのち」と、もう一つは? そう「人生」ライフ・タイムだ。命は人間だけでなく全ての生物が持つ。しかし「人生」は一義的にはただ人間だけが持つ。
飯舘村村民の置かれた状況がなぜあれほどまでに悲劇的なのか。それは彼らが正にその「人生」を奪われたからだ。それは必ずしも田畑・家畜・家屋ではない。それらの中にこれまで享受してきた「生活」が危機に瀕しているのだ。それはかつての日々の笑顔であったり、人と人がかもし出す温もりであったり、その地に生きた先祖たちの記憶だったりする。
命が大事という単細胞思考の政府通達によって、そこどけそこどけ、とまるで鼻面を引き回される牛のように追い立てられることへの怒りや悲しみを理解できない政治家や役人たち。(ついでだけど飯舘の菅野村長、なかなかの人物ですなー、お友だちになりたい)。
前から言ってきたことの繰り返しになるが、ほんものの罹災地で起こっている悲劇に比べると、わが南相馬市に起こっているのは、一部のほんものの悲劇と、そして大部分の愚かで嘆かわしい喜劇いや茶番だ。心ある市民たちは怒ってますよ! ほらそこにも沸騰寸前の湯沸かし器が、ほらあそこにも静かに体を揺らし始めた湯沸し器が! 氣ーつけなはれやー!
いましもテレビからあの愚劣な福島応援歌が流れてきた。
♪アイ・ウォンチュー・ベイビーふくしま♪
うるせえ、てめえらに応援なんてされてたまるか。おやおや八つ当たりを始めたよこの人。じゃ今夜はこの辺でお開き。
「までいの心」って、なんですか?
前略、突然、失礼致しました。
先生のブログは、毎日読んでおりましたが、震災後、浜さんが真っ先に安否確認のコメントをなさっていたので、ああ、ご無事だったのだと思っておりました。私も母の介護がございまして、仕事半分、介護半分の生活を続けておりまして、これまでコメントしぞびれておりました。
菅野村長さんが、そちらの地方の方言で「までいの心」という言葉をお使いになったのですが、状況の前後関係でなんとなく分かりますが、どういう意味の言葉なのかと思っておりました。
PS
ちょっと関係ないセンチメンタルなことを申しますと、この頃、ああ、そう言えば、先生の奥様は、電話の声で誰だかすぐに分かる方で、一度お電話しただけで、二度目に、もしもしと言っただけで、ああ、成澤さんねとおっしゃったのは、なるほど、教師経験がおありだったんだと、納得致しました。こんなにべったりご主人にそばにいてもらえて、奥様、お幸せですわね。
草々
成澤 弘子
京都からおはようございます。
ライフよりライフ、ライフと同じくライフという主張、もっともです。
(政府を相手に戦っで世界的な有名人になったあの市長さんが普通の市長さんに戻った?!)
ライフに関連する気になるニュースがあります。
6月7日、警察庁が発表した月別、県別、自殺者(または自死者)の数が、東北三県で4月と5月と比べると、岩手県は39人から32人、宮城県が35人から50人、福島県が42人から68人です。福島の増加が気になります。
神戸淡路大震災の経験から、被災者の自殺は、被災直後ではなく、混乱が一段落して現実が見えてくると増えると言われています。
自殺の原因は多要因で県単位の数の変化だけで原因が大震災にあると簡単には結論づけられませんが、関係ないとも言いきれません。
ご存知のとおり、いわゆる先進国で日本は突出して自殺が多く、年間3万人以上が自殺しています。しかし、今年に入って毎月2000人代に減少していましたが、先月5月は3000台に「復帰」したのです。もともと最も多い東京でも今年毎月200人台たのが5月に300人台に急増しています。
私は、自殺率はその国、その土地で人間をどの程度大切をしているかの指標の一つと見ています。まだ推測の域を出ませんが、福島県の自殺増加の原因を究明し大震災の影響によるものかどうか検証すべきだと思います。大震災の影響があれば速やかに対策を取るべきでしょう(手垢にまみれた「心のケア」はあまり好きではありませんが)。もちろん大震災に関係なくても自殺は防ぎ、減らすべきです。
同じく警察庁の発表では昨年1年間で3万1560人が自殺しています。1日おおよそ86人が自殺したのです。この数は尋常ではないと思いますが、マスコミではニュース価値がないのか取り上げません。ささいな交通事故は取り上げても、「有名人」以外は自殺は無視です。
この自殺が増えたというニュースは、たまたまCNNのサイトを見て知りました。海外のマスコミの視点も大切です。
話がまったく変わりますが、ロシアのソユーズである日本人が宇宙ステーンに飛び立ち(他人に車を運転して)成功したと大々的に取り上げられ、「子供の頃の夢が実現した」などと個人的成功を称賛していますが、「宇宙飛行士」1人に何10億円いや何100億円かもしれない使って養成して「宇宙」に送る意味がいまどき、どこにあるのでしょう。何か新物質を作ったというのはまだわかりますが、ステーションでメダカを観察したとしても、その成果がまったく報道されない。無いのでしょう。宇宙ステーションでの「宙返り」は止めてください。成果はなくとも行くことに意義があるのかもしれません。そもそも大気圏外で小さい地球のすぐ傍をぐるぐる回っているだけで、これを宇宙あるいは宇宙飛行士と呼ぶのはおこがましい。それに元「宇宙飛行士」は地球上で何をしているの。最初の毛利さん以外、見えません。今は過去となりましたが、あの歴史的な「事業仕分」で発言する姿を拝見しました。
もういい加減に止めてください。
「国産ハヤブサ」を飛ばした方がまだ賢い。
メジャーなマスコミは、右にならえで同じニュースを無批判に流すのは止めてほしい。
今回の大震災の報道も自らの視点で、事実も基づく鋭い指摘をしてほしいものです。
無理でしょうか。
先の戦争が起こった過程についてNHKの特集を観ました。そのなかで当時の主要なマスコミ―朝日、毎日、読売―は、軍部にそそのかされたのでも強制されたのでもなく、自ら発行部数を上げるために、国民に迎合し、「勝った、勝った」と戦意を高揚させる報道を競争して繰り返したそうです。これは今も同じかもしれません。現在は、それ以上に、もっと国民に影響が強いテレビが参加しています。注意したい。
おやまあ成澤さん、お懐かしい。お元気のようで何よりです。「までい」は、菅野村長さんは「真手」という風に解釈してましたが、「えもすず」さんの「相馬弁保存会」の辞書によれば、「真丁寧」が鈍ったものと出ています。どちらが正しいにせよ、相馬弁では昔から良く使われている言葉です。「もったいない」と同じく国際語になる価値のある言葉だと思います。
三宅さん、今朝もすばらしいコメントありがとうございます。このブログを読んでくださっている良心的な報道関係者は、きっと三宅さんのキツイ指摘に、くやしいけどそのとおり、と必ずや思っているに違いありません。
遅くなりましたが、先生、出版のお話おめでとうございます。楽しみに待ちます。
個人的には「峠を越えて」も皆さんに読んで欲しいぁ…と思ったりもします。先生と奥様の生活の原点が分かると思うからです。また、震災離婚の危機?というような雰囲気があった我が夫婦関係を救って下さった本でもあるからです。ツイッターをしているのですが、同じように震災離婚危機にある夫婦の呟きが多数見られます。
このことも、「命」のライフと「人生・生活」のライフのお話に通じることだなと今回しみじみと思いました。
私も4人の子供達の「命」を守ること−特に放射能から−に頭がいっぱいになりすぎて、子供達との当たり前の毎日の「生活」をないがしろにしてしまうことが多々あります。伴侶に対しても一緒に生きていく覚悟だったり思いやりや愛より、震災や原発人災にどう対応していく訳?あなたはどう思う訳?子供達を守りたいでしょう?といった批判が全面に出てしまうと上手くいかなくなる…と思います。
「人生」「生活」まで壊されたくないです。
人は「命」があればいい訳ではないですよね…。「人生」や「生き方」とセットになってこそ「命」も生きてくる、ということ、また改めて考えることが出来ました。
先生に、またまた感謝です。
いつも皆さんのすばらしいコメントを読みながら思うことは、そうだ私は触媒、こうしてたくさんの魂の中にあるすばらしい宝を焙り出すきっかけ、皆さんの正義を求める心に刺激を与えるリトマス試験紙だ、と。そう、いまの日本で最高水準を行くブログの一つです、おっとこれはあまりの思い上がり。でも皆さんの美しい心、正義を求める熱い思い、を考えると、ついそんな思いにとらわれるのです。
はじめてコメントを書かせていただきます。
英語(はじめヨーロッパ諸語)で「lifeがたいせつだ」というときは、命そのものも、暮らしもふくまれているのに、日本語だと「命が大事」と「日々の暮らしが大事」が別のことのようになってしまうのが問題ですね。ともすると、命さえあれば暮らしはどうでもいいような捉え方にもなってしまって・・・日頃思っていることだったので、まったく共感しました。
「までいの心」とか・・
飯館村菅野村長のキャッチフレーズですね
国際語として大賛成。
真に、日本の原点をあらわすコトバ。
日本書紀に「可美真手命(ウマシマジノミコト)」。
大和朝廷以前の、土着の原日本王の血を引く王。
マジは、マデイが2音に約ったのでは・・
「真面目」の語。変だと思いませんか?
これ、当て字でしょう・・統治者インテリの。
本当は、失われた原日本語(土語)では?
音が大切です。 「マデイ」は、「マジ」・・
「マジすか?」の反論、待ちます。
塵(説)