震災後、季節感が無くなったような気がしていたが、しかしこの数日、爽やかな天気が続いていて、まるで遅れてやってきた五月のようだ。
気がついてみると、このところ意識はほとんど原発事故から離れていた。南相馬30キロ圏内に放射線値の高いところが見つかり、その対応についてひとしきり騒然としていたらしいが。もちろんこれまでだって、戦場特派員意識でレポートをしてきたわけではないから、とりたててレポートする気にもならないでいた。
いやそんなことを言えば、もともと事故そのものの規模・正体について、詳しいことは何も知らないし、調べる気にもならないままだ。ただわずかな知識をもとに、自分なりに行動してきたに過ぎない。だからこのブログから、原発事故対策の具体例とか、収束への道筋とか、実践的・実利的な知見はなにひとつ得られないはずだ。
しかしそれなのに、この小さな、それまではまったく目立たなかったブログに連日相当数のアクセスが続いている。発端は3月22日の朝日新聞の写真入り記事、とりわけ翌日の東京新聞の佐藤直子記者の長文の、やはり写真入の記事によって、全国のたくさんの人の目に、私たち家族の姿が映ったことである。別に演出したわけではないが、老母と幼い孫の写真が強いメッセージ性を帯びたのもその理由であろう。
けれど先にも言ったように、このブログそのものから実利的知識が得られないのに引き続き訪問者があるのはなぜだろう、と考えると(おやおや急に自己分析を始めたよ、このおっさん)、いま新たに発見された高放射線値のホット・スポットとはまったく反対の意味で、しかしその熱量では(?)じゅうぶん匹敵する強い怒りの、熱い憂国の、新しい連帯の絆が、このブログの周囲に生まれつつあるからではないか。
ネットへのアクセスだけでなく、電車と車を乗り継いで、そのホット・スポットの震源地であるわが陋屋、もっと正確に言うと、二棟続きのその旧棟の、その二階の、地震後まだきちんと整理されていない汚―い(この形容詞は人間にも場所にも掛かります)老夫婦の居間に、いろんな方が訪れた。前後関係がはや怪しくなってきたが、支援物資を届けてくれたかつての教え子の一家、南相馬市への長期的支援プログラム持参の恩師のご子息とその勤務先のS大学の先生方、東京新聞の佐藤記者、朝日の「窓」に当事者としては面映いかぎりのブログ紹介をしてくださった浜田論説委員、同じ朝日の南相馬担当の川崎記者ご夫妻、映像作家の田渕英生氏、ルポライターの岡邦行氏、そしてつい数日前は某週刊誌の記者二人とカメラマン一人、今週末には某放送局のスタッフと私と番組内対談を望まれている作家S氏(記事も番組も公表前なので具体名はあえて書きません)、そして来週、メキシコでブログを読んでくださっていたG氏には、氏の帰省途中にお寄りいただくことになっている。
大震災・原発事故がなかったら、けっして実現し得なかった人間と人間のつながりである。あゝ何と摩訶不思議なるかな人生、あゝ何と玄妙なるかな人と人の出会い!
自分たちだけ動かないのはずるいと言われるかも知れないが(妻には慣れたソファーが落ち着くので)、いつか常磐線も開通したら(なにをもたもたしてる、あっそうか途中に原発事故現場があるんだった!)、このブログで知り合った皆さんにも、通りがかりに、機会があれば、この陋屋を訪ねていただくのが、この鬱陶しい(確かに天気は爽やかだが)籠城の中での密かな、そして元気の元となる私の夢である。
★ついでに二つほどお知らせ。以前ご報告したように、今月19日(日)、「福島原発被災者に寄せるチャリティーコンサート」が午後二時から、四谷区民ホールで開催されます。お時間がある方はぜひ会場まで。またこのブログの出版を引き受けてくれた論創社の話によりますと、現在鋭意編集中、いましばらくお待ちくださいとのことです。