震災と神(の場所)

早朝、不意に目が覚めた。なにやら夢の中でしきりに震災と宗教について考えていたようだ。周囲が少し明るくなってはいるが、枕元のケータイを見ると、まだ四時半。美子をトイレに連れていってから、また寝た。不思議なことにまた同じ夢を続けて見たようだ。次に目が覚めたときは、もう九時ちょっと前になっていた。そんな遅い時間に起きたのは最近では珍しい。腰痛の後遺症(?)で疲れが出たのか。ところで夢の方だが、どうしもその内容が思い出せない。どちらにしても手ごわい問題と挌闘していたわけだ。
 複線はあった。先日のロブレードさんのインタビューで、この問題に触れたからだ。もしスペイン人が同じような震災に遭ったとしたら、とうぜん宗教が前面に出てくるであろう。中には石原知事みたいに、これを天罰ととらえる人もあるだろうが、ともかく大多数のスペイン人は、わが身に降りかかったこの災難からの救済を神に祈ったであろう。また震災後、神父や修道女たちが被災者たちを慰める場面がここかしこに見られたであろう。
 日本人もある時代までは、天災やら人災(たとえば大火や戦禍)による惨憺たる被災状況を前に、ときには愛する人たちが波にさらわれるという最悪の状況の中で、神や仏に祈った。もちろん「神も仏もあるもんか!」という叫びを挙げたかも知れないが、それとて神頼みの裏返しの表現であり信仰の一つの形態ではある。
 ところが今回の震災に際して、私の知る限り、宗教的な捉え方をする人や被災者の救済(とりわけ魂の)に立ち向かう宗教者の姿はほとんど見られなかったのでは、と思う。東北の町々にも、平常時には、たとえば「ものみの塔」などの貼紙や戸口訪問などあるはあるが、少なくともこの深刻な事態を前にさすが神の怒りを言い出せなかったのか、表立った活動は控えていたようだ。
 ロブレードさんの問いかけに対しては、今回の震災に際してどうも宗教が立ち入る隙間というか、もっとはっきり言うと、神様の場所がなかったように思える、と答えざるを得なかった。呆然と立ち尽くし、だれをも(神をも)呪詛せず、じっと悲しみを堪える様は、確かに欧米人から見れば、沈着冷静で我慢強い日本人という印象を与えたはずだ。
 このカメラの向こうにかつての同僚である修道女たちが見ていたら悲しむであろうが、と個人的な事情(?)を前置きにして私が言ったのは、現在の私の既成宗教批判の立場からすれば、こういう場合に安易な神頼みは感心しないが、かと言って現在の日本人に、既成宗教の神や仏でなくてもいい(?)、たとえば玄妙な大自然の摂理に対する畏敬の念や、人間の浅知恵をはるかに超える秩序への畏怖の感情が消えてしまったとしたら由々しき事態だ、それこそ私の言う魂の液状化ではないだろうか、と。
 つまり、もっと辛辣に言えば、現在の日本人にとっての神は、政府であったり大企業であったり、あるいは生活の利便・安定という、矮小でその場限りで、結局は頼りにならない三流の神だとしたら、由々しいどころか、まさに終末論的な世界に堕落しているのでは、と憂慮せざるを得ないのだ。
 昨日の話の続きではないが(いや明らかにそうだが)、事は放射線禍以上に深刻な事態なのかも知れない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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震災と神(の場所) への3件のフィードバック

  1. 宮城奈々絵 のコメント:

    私はこの震災と原発人災で、信仰を持っている人、なんらかの宗教を信じている人が「神」や「命」「「生」について、どう言うのか、解釈するのか知りたくて仕方ありませんでした。
    ツイッタ-をするので、宗教的キーワードを片っ端から入力して検索しましたが、心にピンと来る言葉は見つけられません。
    宗教家の方々はめをつぶって生活しているのか、自身も戸惑いからぬけられないのか…。
    言葉とその真意を聞きたいです。

  2. 安里睦子 のコメント:

    見当違いかもしれませんが、ブログを読ませて頂いて「白鳥蘆花に入る」
    という言葉を思い出しました。
    検索してみたら、次のような日記がでてきました。
    00.05.10とありますので、もう11年前ですね。
    http://www.satonao.com/diary/00/0510.html  と入れたらでてきます。
    紹介させてください。

    _____________________________________
    「白鳥蘆花に入る」・・・そんな「次郎物語」の古い言葉を、唐突に思いだした。
    真っ白な蘆花の中に真っ白な鳥が静かに降り立つ。
    背が高い白い花にその姿は隠れる。
    が、羽根の風が、波紋が広がるように、静かに白い花たちを揺らしていく…。

    醜い事件が多く起こり、希望も未来もよく見えにくい世の中ではあるけれど、
    このように、実は静かにそんな白鳥たちが増え続けている気がしている。
    白い鳥の姿は、白い花の中に隠れて見えない。
    でも、起こした羽風は、確実に、周りに影響を与えている。
    つらくて。空しくて。生きているのがイヤになるような毎日ではあるが。
    きっと。発信した言葉や気持ちは。誰かに。あの人に。届いている。
    ______________________________________

    先生が、懸命に羽を動かして羽風を起こしてらっしゃる。
    その事に私は神の愛を感じます。

  3. 安里睦子 のコメント:

    すみません。
    上記のコメントで紹介したアドレスによけいなものも入れてしまったようです。

    http://www.satonao.com/diary/00/0510.htm

    これだと大丈夫だと思います。
    この日記を書かれた方は今でも活躍しておられるようです。

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