今日も暑い一日だった。もうすぐ六時になるところ。今日はせめて買物をしないと、おかずがない。三時ごろ車で出かけていく。散歩代わりにと、駐車場のはずれに車を止め、照り返しの強いアスファルトの上を店に向かう。このところ肉類はあまり食べたくない。ワンコインセール(つまり五百円)の刺身の盛り合わせで二人には余るくらいの量となる。このごろはサイヤの弁当は買わず、ご飯は家で炊き、おかずだけ買い求めている。
レジを終えて駐車場に向かいながら、20円にこだわっている。つまりカルシウム含有量の多い牛乳についていた割引券を牛乳パックの上に乗せておいたのに、レジ係に見せるのを忘れたことが気になっているのだ。でもどうして初めから割引してないんだろう。そこでこう結論する。そうだ、値札を貼ってしまった後に、急遽割引券を発行したんだろう。それで納得、あきらめよう。71のおじいちゃん主婦が、そんなちっちゃなことにこだわっています。
でも生きるっちゅうことは、つまりはこうした些事の積み重ねですわ。(神は細部に宿りたもう。)それにお昼過ぎの電話で、娘の一家がこの休みは都合がつかず遊びに来ないことが分かって、がっかりしている。放射線が恐くて来ないんだったら腹も立つけど、なにやら事情がありそうなので、これもあきらめるしかない。あゝこれもまた人生。万事うまくいくはずがない。
要するに(おや急に話題を変えたよ)、喩えて言うなら、いま私たちは健康な皮膚の上に生きてるっていうこと。すまん、急に話題を変えて。この間の専門家の話まだ尾を引いている。つまりこの南相馬を一枚の皮膚に喩えるなら、赤く汚染されたところもあれば、すこしピンクがかったところ、そして私の住むまあまあ健康な色の皮膚があるわけ。今日の私の歩いた道筋、家からスーパーまでの道筋は、その健康な皮膚に含まれる。私たち夫婦だけでなく、今はたぶん二万人近くの市民がその中で以前とほとんど変わらない生活を送っている。確かに少し行くと線量の高いところはある。しかしまあまあの生活を送るぐらいの広さはじゅうぶんあって、そこでみんな必死に生きているわけ。
この健康な皮膚を大事にしながら少しずつ広げていくにはどうしたら良いか、という視点に立ってもらいたいのに、専門家は遠くから十把ひとからげに、私たちの住むところは危険だ、そこはそらセシウムがいくらいくら、ほらそこは線量が基準値を超えてる…だから除染が必要、できればそこをどけた方がいい、などとおっしゃる。
でも、ねえ、私たちここにこうやって必死になって生きているの。他のところには行きたくはないの。それなのにここは摘出手術が、ここは大掛かりな除染が必要だなどとおっしゃる。ありがたいけど、ねえこうやっていま生きてるの。卓袱台(ふるっ!)を囲んで夕飯を食べようとしてるのに、白い防護服を着た人たちが縁側から中を覗いて、あゝそこはどけないとあぶないすよ、などど言ってるの。
いや狭いかも知れないが、ここは線量も低く、健康に害があるわけではない。それに幸いなことに放射線は繁殖も伝染もしないの。
つまり要するに、除染や汚染土の撤去が必要なら外から中へと作業を進めるのではなく、時間がかかったり面倒なのは重々分かりますけど、ほらここにこうやって生きてるんですから、中から外へと作業を進めて欲しいの。分っかるかなー、私の言うこと。一緒に住もうよ、と言ったのはそういうこと。こうして徐々に健康な皮膚を少しずつ少しずつ広げていこうと言ってるの。そうでもしなけりゃ、健康な皮膚まで傷めたり汚したりしてしまうの。
分っかるかなー、わっからないだろうなー。
ともかく早く終わらないかなー、この中途半端な生活。このごろ、なんだか知らぬ間に声を出してため息ついてます。あまり大きなため息なもんで、美子がビックリしたようにこちらを見ることがあります。あゝ、大丈夫、だいじょうぶ、パパは元気ですよー。
おや、いつの間にか日が暮れちゃった。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日