昼前、電話が鳴って出てみると、同人誌の仲間で、といって個人的に話し合ったことはない人で(性別はあえて秘しておく)、今度から編集はそちらでやると伺ったが、いつ締め切りか、という問い合わせであった。当たり前の内容で、特に変だとか失礼だとかというものでもなかったが、受話器を置いてしばらくしてからじんわりと何か引っかかるものがあった。
震災後、たびたびそういう感じに襲われてきた。以前と比べて少し神経質になったのだろうか。それまであまり感じなかった、変に思わなかったことが、なぜか心の中に波動を起こす。
先日は、別の或る研究者というか、一応は後輩となる或る人からの暑中見舞いの葉書だった。いつものような季節の挨拶。しかし何かが欠落していた。
簡単に言えば、両者に共通しているのは、被災者に対する心遣いの言葉がないことである。もちろんありきたりで大仰な見舞いの言葉を待っていたわけではないが、そこはふつうの人間としての礼儀であろう。葉書の書き手は震災時に外国にいたらしいが、それにしても私が被災地に生活していることを知らないはずがない。いや気付かなかったのかも知れないが、その欠礼をさりげなく指摘したこちらからの返書には、一切の返事が返ってこなかった。小うるさい爺さんに捕まったわい、とかえって不快な思いをしているに違いない。
ともかく先日の修道女の場合もそうであったが、みな学者・教師、(一応は)文学者、そして聖職者という具合に、いずれも私自身が関わってきたフィールドだから、特にそう感じるのかも知れないが、要するに彼ら(彼女ら?)の枠組みというかこれまで生きてきた価値観・世界観から抜け出せないまま、従来どおりのスタンスで生きている、と言ったらいいのか。いや、事は非常に微妙な領域に入ってきつつあって、言葉にするのは難しい。
唐突だが一つの例を出そう。サルトル自身のことや彼の思想などまったくの門外漢だから、もしかして間違ったコンテクストの例となるのか分からないが、彼がかつて言った「文学は飢えた子を前にして何ができるのか」という言葉と関係している。つまり今度の大震災・原発事故は日本人一人ひとりに重大な問いかけをしているのに、それにまったく気づかないか、あるいはあえて気づこうとしていない人たちのことがやけに気になるのである。
この大震災後にあっても、これまで自分の研究テーマであったものの問題点、そしてそれへの切り込み方がまったく変わらないということが果たして可能なのか。自分と文学そしてその表現方法がまったく変質しないままでいることができるのか。かつては迷える人間たちの救済に命を掛けたいとまで思いつめた自分が、さして悲惨な事件もない安穏な生活の中でマンネリ化していたことに、この震災を機に愕然として覚醒しなかったのか。
問題を思い切り単純に図式化するなら、上記三つの知のあり方が、いつの間にか現実から遊離していなかったか、ということである。十八世紀の東北の思想家安藤昌益の名をここで出したら、ビックリされると思うが、彼はそれまでの学問・知識は農民に対する階級支配を合理化したものに過ぎないと、孔子、孟子を初めあらゆる知の独善的支配を徹底的に批判したことは有名である。
今回の原発事故で露呈したのは、学問が、科学が、時の政治機構に丸ごとからめとられていたこと、そしてそれは科学だけでなく広く学問や教育制度などすべてがいつの間にか時の権力に迎合してきたのではないか、と深刻な反省を迫られているはずだ。
ずいぶんと大風呂敷を広げたのでは、と気づいてはいる。しかし震災以後の実にささやかな体験の中で、それと名指しできないままに、実は地震・津波や原発事故による巨大なダメージ以上に、このように精神世界の奥深くに、もっと深刻な危機が訪れているのではないか、そう漠然とながら危惧しているのである。以前ここでも問題とした魂の液状化現象の、これはまた別の角度からの感慨である。
【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授、英米文学・西洋文化史)からいただいたコメントを転載する(2021年3月5日記)。
「精神世界の奥深くに、もっと深刻な危機が訪れているのではないか」という最後近くのご発言に、これほど現実性を感じたことはありません。
先生がこれをお書きになっていられるころ、日にちはちょっとずれるようですがわたしはウクライナのキエフに滞在しておりました。キエフにはチェルノブイリ原発事故博物館があります。訪れると、白地の大きな垂れ幕に、英語で「日本の東北大震災と福島原発事故で犠牲になられた方々、被害に遭われた方々へ、心からの哀悼を捧げ、深い同情の念を禁じ得ません」と大書してありました。そして余白に桜の花が描かれていました。
数時間後、出口に向かうと、ガラスのケースのなかに、古く黄ばんだ日本語の新聞が大きく展示されていました。『ヒロシマ新聞』の第一面で、原爆が投下されたことが報じられていました。
この日から数日後、わたしはクリミア半島に向かって南下し、途中ドライブインホテルに一泊しました。翌朝、朝食のため階下のレストランにはいると、テーブルが隣り合わせになった家族連れがあり、ご主人がわたしを日本人と見て話しかけてきました。仕事で神戸にしばらく暮らしたことがあると英語で言い、このたびの日本の大惨事にお悔やみを言いたい、自分らもチェルノブイリ原発事故で大きな痛手をこうむったが、こうしてなんとかがんばっている。同じ経験をした者として心からの声援を送りたい」と言われました。わたしはありがとうございますとだけ辛うじてウクライナ語で礼を述べたものの、あとは英語で会話を続けました。旅先で現地の人々からこういう同情の言葉をかけられたことに感銘を受けましたが、このほかにも袖触れ合うも他生の縁を身をもって感じた次第です。
私は、3.11以降どうしてこの国はこんな事になってしまったんだろうかと考えました。そして、おぼろげながらわかってきたような気もしています。学問も、ジャーナリズムも時の権力に迎合してきたのだ、と、悲しい気持ちにもなりました。でも、時の権力とは何でしょうか。私は、それはやはり国民一人一人の心の奥底に潜む気持ちが作り出すものではないかと、今思い始めています。
例えば、銃で撃たれて死ぬような目にあった人は、その後どういう人生を送るでしょうか。多くの人は、また同じ目に遭うのではないかと不安な日々を送らざるを得ないでしょう。それからのがれるために、勇気のある人は銃無き世界を目指して行動するかもしれません。がしかし、多くの人は身を守るために銃を持ちたいと思うでしょう。自らが持つ事ができなければ、ボディガードを頼むかもしれません。あるいは、防弾チョッキをきるかもしれません。広島、長崎で経験したのに、なぜ原発なんだと思っていました。が、だから原発なんだ、原爆が作れないからせめて原発なんだ、と為政者が考え、国民もそれを暗黙のうちに支持したのでしょう。少なくとも国の上層部にあって、リーダーと言われる政・財・官・報・学の見識あるといわれる人々は…
今この事があらわになったとき、国民は身を守るために核を選ぶか、選ばないのか、
その事は、私たちひとりびとりが覚悟を持って決めなくてはならない、そういう時が来ているのだと思います。オウンゴールで、ふるさとを放射能まみれにしてしまった
かわいそうな日本国の人々だと、そう思えてなりません。
こんにちわ
確かにね 壊れてると言うより、固まっているといいたい
それも小さく小さく無機質に
日本に行った時、しばしばびっくりすることがありました
最近のお父さんたちって、自分の子供の面倒み凄くいいんですよね
で、子どもと夢中になって遊んでるのを見て、いいねえと思ってたら、その横を通り過ぎたおばさんが躓いて転んだ
無反応だったんですね
手を差し伸べるどころか、あっでもなく、大丈夫ですか?でもなく
ぞっとしました
こういう光景珍しくないんですよ、東京には
日本には この小さな小さな幸せが一杯なんです
でも、社会の事を思うとこの幸せのシャボン玉がね
もっと大きくなって、いろんなもの、いろんな人を包括しないといけない。と思うわけです。
自分の家族だけよけりゃあいいなんて、こんなに貧しい発想はないわけですよ
ヨーロッパはその辺ちょっと違います
大陸だからなんでしょうか?
それこそカソリックのせいなのか?
地域という意識が、その中でのコミュニケーションがまだ生きています
つまるところ、人間が暮らしていて幸せだなあと感じるのはそこのところにあるのではないでしょうか?
昔の日本はそうでしたよね
私は、裏のお姉ちゃんに子守してもらって育ったんです
だから、隣のおばさんもなんか親戚の延長線上に連なる
日本は、進化した、発展したと言うけれど、むしろ退化して言えると思います。
とてもとても淋しい国になってしまったと感じます。
この震災がその辺を見直し、方向転換するいい機会だと思っているんですけどね…
JUNKOさん、あなたのおっしゃっていることはよく分かりますしその通りだと思いますが、私が選んで使った表現(このばあいは「壊れている」という言葉ですが)をそう簡単に直さないでください。たぶん面と向かってお話ししているときはなんでもないやり取りですが、文字に書くときはきつく響きます。それなりにお互いの発言を尊重しましょう。これはホストからの言わずもがなのお願いです。