よしなしごとを

書くことなんて何もない。今日は、一度郵便局に一人で行ったほか、ずっと家にいた。いま「家の中に」と書こうとして、そんなこと当たり前、と気づいて「家に」にした。これが震災が一段落した後の「日常」なんだ。特に書くほどのこともなく、時間が過ぎていく。食事の準備のほかは、本を読むでもなく、片づけをするでもなく、しかし何もやらないのはまずいと、たとえ注文があっても儲けにはならない私家本を一生懸命作っている。在庫数が分からなくなるので、フロントページに「在庫目録」というアイコンを作って、表紙をつけた段階で在庫数を訂正していく。
 いまのところ、在庫数トップは「モノディアロゴスⅡ」の9冊。あとは2冊から4冊のあいだ。本の背中を糊付けする「製本屋さん」という簡単な器具に附いて来たアルミニウムの足台(つまり本を支える小さな板状のもの)だと今度の『モノディアロゴスⅤ』の厚さでは少し幅がたりないので、昨日、百円ショップで買ったプラスチック製の「消火器」と書かれた赤い札を適当な長さに切ったものが、厚さといい丈夫さといい、申し分のない代用品になって、作業がやり易くなった。
 作りながら時々拾い読みをしているが、自分で言うのも変だが(といってこれまでも時々さり気なく自画自賛してきたが)なかなかいい。たぶん生きている間は注目されることはないだろうが、それでもいいと覚悟はしている。死んだあと、おやなかなかいいものが残ってたぞ、と誰かに再評価されたらそれで満足。一昔(いやもっと昔か)評判になったドンだかダンだかいう人の「キセル(?)の煙」とかいったシリーズものよりむしろいいくらいだ。
 ただしちょっと書評するには戸惑うだろうなとは思う。エッセイなのか日記なのか分類がむつかしいからだ。しかし書き手の私からすれば、そこが『モノディアロゴス』の真骨頂。2002年からおよそ十年、書きも書いたりだが、おそらく死ぬまでこれ以外の形式の文章は書かないであろう。自分や自分の周りのこと(先祖様をも含めて)をこれほど詳細に語り継ぐのは、今までないわけではないがちょっと珍しい(かも)。
 ずいぶん細かいディテールまで書いてしまって、もう書くことはないのでは、と思われるかも知れない。たしか今日も書き出しにそんなことを言ったような気がする。しかしご覧のとおり、そう言いながらもここまで相当の言葉を連ねている。そう、人間の心など底が見えないほど深い。だから、お前は書かなくてもいいような秘密まで恥ずかしくもなく書いてきたな、と思われるかも知れないが、とんでもない。私は私の秘密の万分の一も吐露してこなかった。秘密なんぞゴマンとあって、大半は墓場まで持っていくことになろう。
 でもそうは言っても、何も書くことはない、と書くほどには、少々日常がスムーズに流れなくなっているのも事実である。その大半の理由は、美子がここに来てだいぶ歩行が難しくなってきたことによる。トイレに連れて行くことも大仕事に思えてきた。ただ身体機能そのものが劣化(?)しているわけではなく、脳と身体の連携が難しくなってきているのであろう。
 震災の前ごろから、歩くときに心持ち左に傾(かし)ぐ傾向があったが、最近は逆に右に大きく傾ぐようになってきた。昨日、久し振りに夜の森公園を歩いたときも、美子の左手を支えるように持って歩くときにはすこし引っ張られる感じになるが、右手を持って歩く時には、ちょうど美子の頭が私の左肩に寄りかかるようになる。遠くから見ると、二人連れの男女の女の方が甘えて男の方に寄りかかって歩くように見えるだろう。
 昨日から、いや正確には一昨日から、今日こそはと思いながらまだ果たせないことがある。美子にシャワーを使わせることだ。使わせる? いや違う、美子を介護用のパイプの椅子に坐らせて、シャワーで体や頭を洗ってやることだ。やればなんとかできるのだが、トイレに連れて行くときと同じく、それを決行するのにやけにエンジンのかかりが悪いのだ。これが疲れなんだろうな。そのせいか、このところ連日のように見る夢は、乗り換えの電車に間に合わなかったとか、急に行先が分からなくなってパニックに陥るといったものばかりだ。
 正直言うと、原発事故なんて知ったことか、将来起こりうるかも知れぬ(つまり起こらない可能性もある)ことに大騒ぎすんない! こちとらはいま目の前にある難関をどう乗り越えていくか、残された時間をどう有効に使うか、それで頭がいっぱいだい、と思う。
 いや、心配しないでください。これまでそうであったように、なんとか切り抜けて見せますから。ただ秋風が吹くようになって、一日だれとも会話をすることもなかったので、ついグチをこぼしただけですから。私の中にある悲観論的な側面が出ては来ましたが、根は楽観論者ですから。左に大きく傾ぐのも今だけで、そのうちちょうどバランスがよくなるはずだと思ってますから。
 本当はその後、美子にシャワーを使わせて、ほらね、ちゃんとできたでしょ、と短く報告するつもりだったが、美子を椅子に坐らせていざお湯を、と思ったら、何としたことかお湯が出ない! 最近パネル盤の数字が点滅しているのでちょっと変だな、と思っていたら、やっぱり故障していたらしい。太陽光発電装置と連動している給湯器だから、明日にでも工事会社に連絡しなければ。といって宮城県柴田町のその会社が震災後も営業してるかどうか分からない。さて困ったぞ。
 真冬でなくて助かった。美子の体もそう冷えなかっただろう、今はもうぐっすり隣りの部屋で寝ている。でもあの大地震のあとにも使えたのに、どうしたわけだろう?

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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よしなしごとを への2件のフィードバック

  1. 松下 伸 のコメント:

    過日、テレビで先生、奥様、拝見の折、
    思うことあって、投稿しました。
    言葉が択べず、文にならず
    拙い投稿でした。
    その後、ある思想家の一文を思い出しました。
    「神をつくるものは、人の崇高な精神・・」
    神を批判して、「キリスト教の本質」と言う本を書いた人です。

    「アメイジング・グレイス」。
    有名な歌です。
    「善人なをもて救われん。言わんや悪人をや」
    有名な言葉です。
    神とは、仏とは、実は
    人が崇高な精神にめぐり会った時のこと・・

    大げさなこと、言いました。
    でも、ふとしたまなざしや、しぐさに
    それを思う時、ないでしょうか。

    先生の旗を見ている、
    多くのムシロ旗があります。

                     塵(後拝)
    追伸
    Sさま。
    日本で一番貧しいのは、この私です。
    ご心配なく。
    ご健勝を、ご健勝を。
    投稿楽しみにしてます。

  2. ユイコ のコメント:

    昨日のS様の「暇ですネー」を勝手にお受けしまして「ドン・キホーテとサンチョの生涯」のなかに素敵な箇所を思い出しましたのでご紹介させてください。
    S様のご投稿をいつも楽しく読ませていただいております。ありがとうございます。元気を頂いております。S様のお暇とは「忙中閑」とお察しいたします。私の場合は「閑中忙」で~す???

    ウナムーノ著作集2「ドン・キホーテとサンチョの生涯」4回目のご紹介 
    ぺージ 29からの抜粋

    「ドン・キホーテは戦の際の抜け目のなさや詐術が習得されるところの狩猟を好んだ。このように彼は、野うさぎや、しゃこを追って村のあちこちを、ラ・マンチャの雲ひとつ無い空の下を、ひとりぼっちで、気楽に、駆けめぐったにちがいない。

    彼は貧しく、かつ暇をもてあましていた。殆ど一年じゅう暇であった。世の中で閑暇の中の貧しさほど気の利いたものはない。貧しさは彼に生活を愛させ、彼をあらゆる飽食から遠ざけ、そして夢を与えた。また閑暇は彼に終ることの無い生について考えさせたに違いない。朝の狩りの途中、自分の名がその広々とした平原の諸方に広がり、家々をへめぐり、幾世紀にもわたって世界中に反響することを何度夢想したことであろうか!彼は閑暇と貧しさを、野望にみちた夢を糧として養い、そして生の安楽から身を引き離して終りなき不滅を切望したのである。

    それまでの四十幾年かにわたる不分明な生涯において(なぜならばわれわれの郷士がこの不滅の作品に登場するのは五十歳になんなんとするときであったから)、その四十幾年かにわたる生涯において、狩をすることと財産を管理すること以外に、彼は何をしてきたのであろうか。その緩慢な、長期にわたる生涯において、その魂をどのような観想でもって養ったのであろうか。というのは彼は観想家であり、観想家だけが彼のような任務に対して心を備えさせるからである。[観想:一つの対象に対して心を集中して深く考察すること。真理、実在を他の目的のためにではなく、それ自体のために静かに眺めること。アリストテレスは観想的生活を人間の最高の生活と考えた。広辞苑より]

    注意していただきたいのは、彼は五十歳になんなんとするときまで、つまり生涯の充分熟しきったときまで世に出ることも救世の業に身を捧げることもなかったということである。したがって彼の思慮分別と善意が充分熟してはじめて彼の狂気が開花したのである。彼はあまり分かりもせぬ道にがむしゃらに身を投ずる若者ではなく、純粋な精神成熟から気が狂った、分別ある思慮深い人間であったのである」

    当時16世紀の50歳とは今の70歳くらいのものでしょうか。高齢化社会?そんなことで憂いてどうする!! 団塊の世代の一人としてこれからの人生のエールとしてこれを読ませていただきました。
    佐々木先生に感謝です。
    [  ]筆者文
    以上
    「ラ・マンチャの雲ひとつ無い空の下を、ひとりぼっちで、気楽に、駆けめぐったにちがいない」気持ちよさそう!!

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