けつ抜け

世の中こんなもんなんでしょうなー。71歳、おっと先月72歳になった私としたことが、日本も少しは変わるんでないかな、と思っていたとは、甘いっすなー。
 このごろほとんどテレビは、ということはニュースも、というわけですが見ていないのに、大事なことは、と言うより不愉快なことは、どういうわけかたまたま点けたテレビでやってるんですなーこれが。いやね、一つは野田新首相の国連演説ですわ。これまでの流れからすれば、とうぜん脱原発を、そして新しい国家エネルギー政策として再生可能エネルギーへの転換に言及すると思っていたら、そのいずれにも触れず、今回の事故でもろくも崩れ去った安全神話の焼き直しと、その線上の、原発技術の輸出を謳いあげるとは、開いた口がふさがらないっすなー。
 どこか時代劇の役者みたいな風貌で(今考えるとドサ回りの役者だったかな)、答弁もソツがなさそうだから、もしかしてやるんでないの、と期待してたら、このざま。信用したのが間違いだったわけで、実は腹も立たず、ただただ全身酢漬けになったような無力感が残ったわさ。
 そんなこと、わざわざこのブログで吐露するにも及ばないと無視をきめこんでいたら、今日の夕食後に見る気もなく見たテレビのニュースで、山口県のどこかの町で(たぶん原発立地予定地だったかな)、原発推進派の現職が選挙で当選したというニュース。これなんぞ、名前など覚えたくもない西の方のどこかの町で、川俣産の花火打ち上げを中止した馬鹿な奴らと似たようなもの。
 一方は推進派で、他方は原発(事故)恐怖症で、まったく逆だって? いやいや同じようなもんさ。両方とも想像力に欠け、目先の便利さや快適さを追い求めているという点ではまったく同じ穴のムジナでっせ。
 あゝついでに思い出した。アメリカの人工衛星の破片が落ちてくるって話。ふざけた話だぜ、まったく。これじゃおちおち寝てもいられねえ。安全に回収できない衛星なんてそもそも打ち上げるなっちゅーの。そんなものにぶつかって、いやぶつけられて死ぬなんて、こんな悔しい話はないべさ。昔、夜間旅客機からの落下物で恋人を失った男が、その旅客機の乗客を一人ひとり突き止めて復讐を果たそうとする推理小説(W. アイリッシュのでしたか?)を読んだことがあるが、さて人工衛星の場合、復讐の対象はだれになるんだろう。
 ともかく原発にしろ人工衛星にしろ、最後まで安全性が確かでないものをよくも作ってくれるよ。喩えて言うなら、超豪華なコンドミニアムの最上階に超高価な水洗便所を作ったはいいが、最終的な汚物処理装置を作ることを忘れたようなもんじゃ。つまりいつかはその汚物が、最上階のコンドミニアムまで積もりに積もってしまうというわけですわい。これこそエスカトロジカルな、つまり糞尿譚、もとい終末論的な話でっせ。下品な話をするなですって? ざけんじゃないよ、下品よりもっと悪いのは、他人の迷惑を考えない方でっせ
 死んだ爺ちゃんがよく言ってた「けつ抜け」ですわ。つまり通り抜ける際に障子・襖をきちんと閉めないだりすると、間髪を入れずに爺ちゃんの怒号が飛んできたもんじゃ。「こらっ!けつ抜けてっとー!」ってね。原発推進派も衛星打ち上げ人も、最後の締めを忘れた「けつ抜け」共じゃ。なーんぼ難しい学問しても、人に迷惑かけちゃいかんぞなもし。

 ※追記 コンドミニアム(condominium)というのは、もともとはラテン語で「共有地」を意味する言葉だが、推進派も飛ばし屋も自分たちが地球を共有しているのだという意識が希薄か、もしくは皆無の人たちということになりますね。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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けつ抜け への4件のフィードバック

  1. コロラド のコメント:

    総理大臣の質
    『大方針を総理が明言し、閣僚、官僚をそれに従わせる』これでなくっちゃ、総理は務まらない。泥鰌だの雪だるまだのノーサイドだの、『方法』ばっかりしゃべるが『目標』については黙して語らぬ野田さん。これまでに野田さんが言った大方針らしきものは、1.『増税』 2.『米国との同盟進化=対米追従強化』 3.『ノーサイド』
    国民のためを思った『方針』など一つもない。1は官僚の言うがまま、2はオバマさんの言うがまま、
    3の『ノーサイド』などは、自分が方針を持たないことを自白したに等しい。

    首相を作った途端批判する国民が悪いと言われるが、そもそも国民は野田さんを選ぶのに何も手を下していない。小者の議員が互選して、2,3,4位が勝手に野合して『泥鰌だのノーサイドだの雪だるまなどというわけのわからん演説をした』野田さんに勝手に感動して選んだに過ぎない。そんな制度が悪いから国民が欲求不満に陥り毎年首相を変えるハメになる。

    地方的視野に立った小選挙区で選ばれた小者議員の互選で首相を選ぶのではなく、国家的視野に立った大統領を選ぶ制度に変えなければ、国家的課題は解決しない。悪いのは人ではなく制度だ。
    てなことを、熟年相手のサイトメロウ倶楽部のメロウ談話室というところに書き込んで四面楚歌状態になってます。忘れてましたが、国連演説では安全な原発なんてえ寝言を言ってましたな。北欧では丈夫な岩盤に500mもの深さの穴を掘って200年分の使用済み燃料を埋め、10万年はもつという封印をしようとしている国があるのに、覗き込めば見えるようなお粗末なプールの水に漬けて”保存”している国の首相が何を言うのかと嘲笑されたことだろうと、国民として恥ずかしいです。

  2. 成澤 弘子 のコメント:

    浜岡原発の住民がノーと言ったのを、もっとマスコミは大げさに取り上げるべきですね。マスコミも、腰砕け?

  3. ユイコ のコメント:

    ウナムーノ著作集 2「ドン・キホーテとサンチョの生涯」
    アンセルモ・マタイス/佐々木 孝訳 
    私の好きな上記の本の2回目のご紹介
    ページ55からの抜粋。

    [ドン・キホーテが倒れている。そこへ百姓のペドロ・アロンソが通りかかり
    彼を家に連れて帰る。 そこでの二人の会話からの考察]

     「拙者は自分が何者であるか承知しているわい!」
    こうした騎士[ドン・キホーテ]の豪胆な主張を聞いて、次のように叫ぶ人が確かにいるであろう。
    「郷士[ドン・キホーテ]のおもいあがりももうたくさんだ!・・中略・・彼がどれほどひどい狂人であるかはこれだけで充分分かるというものだ」と。
    「ところで、そのようにもし君が言うとするなら、君はまちがっている。ドン・キホーテは自らの意志をもって考えめぐらしていたのであり、「拙者は自分がなにものであるか承知しているわい!」といったときも、ただ「私はどういうものでありたいかを承知しているのだ!」と言っているにすぎないのである。そしてこれは、つまり自分が何でありたいかを知るということは、人生全体のかなめなのである。君にとって、君自身が何者であるかはたいして重要なことでないにちがいない。君にとって大事なのは、君自身が何者でありたいかということなのだ。いまある君は地上のものを糧としている、はかなく、またやがては死すべき存在にすぎず、いつかは大地に食われてしまう存在である。ところが君がそうありたいと望む君は、宇宙の意識である神のうちにおける君のイデアである。つまりそれは、君が時間と空間におけるその現われであるところの神のイデアなのである。そして君がそうありたいと望んでいる存在へ向かっての君のノスタルジックな衝動は、きみを天の家へとひきつける望郷の念に他ならない。まさに人間以上のものたらんと欲するときだけ、人間は本来的な人間なのである」
    [  ] 筆者文

  4. ユイコ のコメント:

    ウナムーノ著作集 2 「ドン・キホーテとサンチョの生涯」
    アンセルモ/マタイス、佐々木 孝 訳
    3回目のご紹介

    第2部 第69章 ページ326 抜粋
    [ドン・キホーテが吐いた「世の中にもう一人のわしがいるはずがない」という言葉についての考察]
    「世の中にもう一人わしがいるはずがない! これこそわれわれがけっして忘れては
    ならない言葉である。とりわけ、われわれがいつかは姿を消さなければならないことについて苦悩するとき、そしてわれわれは世界の中の一アトムにすぎないとか、われわれが存在しなくとも天体はその運行をつづけるとか、善はわれわれの協力がなくとも実現されるであろうとか、世界というこの広大な建造物がわれわれの救いのために作られたと考えるのは倣慢であるなどというこっけいなたわごとを聞かされるときにけっして忘れてはならない言葉である。
    この世にもう一人わしがいるはずがない!われわれ一人ひとりは唯一かつ代替不可能なものなのだ。
    この世にもう一人わしがいるはずがない!われわれ一人ひとりは絶対的なものである。もしもこの世界を造り維持する神がいるならば、それは私のために造り維持しているのである。もう一人私がいるはずがないのだ!私より偉大ですぐれた人間も、私より卑小で劣った人間もいるであろうが、もう一人の私などいないのである。私はまったく新しい何かなのだ。私の中には、永遠の過去が凝縮されており、そしてこの私から永遠の未来が派生するのである。もう一人の私などいないのだ!これこそ人間同士の愛の唯一の堅固な土台である。なぜならば、君以外の君も、彼以外の彼も存在しないからである」
    [  ]筆者文

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