善意の忠告

先日かかってきた電話で、ばっぱさんが大震災までお世話になっていた「くにみの郷」がスタッフと入所者が少数のままついに再開したことを知った。霊山町の施設に移されていた二人のおばあさんと一人のおじいさんはどうしてますか、と聞くと、霊山から戻ってきました、と言う。そのとき以来、一度訪ねたいと思っていた。
 折りしも十和田から、いまや恒例になった上士幌と帯広からのばっぱさん慰問が無事終了したとの連絡があったのを汐に、昨日の午後、美子を家に置いて、途中スーパーでお菓子を買って施設を訪ねることにした。スーパーから施設へと続く路地を車で行くと、この三月まで毎日のように通った道であるから、まるでタイムスリップして遡行するような不思議な懐かしさを覚えた。車を降りて施設の中庭を入っていくと、右側の棟、確か「なごみ」という棟からWさんが迎えに出てきた。ばっぱさんが入っていた左側の「松ぼっくり」は閉鎖され、「なごみ」棟だけが機能していると言う。
 おじいさんは風呂上りで昼寝中ということだったが、他の二人のおばあさんとは半年ぶりの再会を果たすことができた。二人とも思いのほか元気である。Wさんにお菓子と『原発禍を生きる』(このおばさんたちにこそ読んでもらいたかった本である)を渡した後、おばあさん二人とそれぞれ一緒の写真を左手を伸ばして(つまり自動シャッター代わりに)撮った。十和田のばっぱさんに送るためである。このおばあさんたちには、後日、このときの写真とばっぱさんと愛が一緒に写っている写真を進呈するつもりだ。
 たぶん今、入所者は五人くらいか。改めて思うのは、やはり行政側のミスリードについてである。もちろんそれに従わないで、最後まで老人たちを守って業務を続けるという選択肢もあったはずだが、それを理由になにか法的な厳しい罰則が課されたわけでもないだろう。先日の安川さんがお上の指示に従わずに有機米の植え付けをした場合のように、せいぜい役所から嫌味を言われたぐらいではなかったろうか。こういうとき、日本人社会は良い意味でも悪い意味でもお上にきわめて従順である。これが法治国家日本の安定と繁栄に繋がっていることは間違いないが、しかしそれは平常時のことであって、非常時にはマイナスに働く。つまり日本人特有の「善意」がすべてにわたっていとも簡単に行政に絡め取られてしまうのだ。
 こんなことはそれこそ嫌になるほど繰り返してきた主張なので、もう言いたくもない。ともかくおばあさんたちには、来春また私のところのばっぱさんが戻ってくるから、その時までどうぞ元気でいてください、と言って帰ってきた。ばっぱさんもそれを望んでいることを知っているからである。つまり先日の帰省の折にも息子夫婦と了解し合ったことだが、息子の今の仕事の契約が切れる来三月にはばっぱさんともども相馬に帰ってくるつもりだったのである。
 つもりだったのだが、夕食後頴美からもらったメールで、雲行きが少し怪しくなってきた。というのは、そこにとても気になることが書かれていたのだ。これまで我が家の原発関連事情(?)については、包み隠さず書いてきたので、今度のことも例外にしたくない。気になることというのは、昨日の十和田での会食中、従弟から「福島は子供は今は絶対に戻ったら駄目ですとか、福島でできた食べ物は子供は食べてはいけないとかを聞くと、本当にそうなのか本当に悩みますね。」とあったからである。
 このような「事情」は、たぶんいま南相馬の多くの家庭で起こっていることだろうと思う。前にも書いたように、子供たちの40%が戻ってこない最大の理由は、こうした善意の人たちの忠告や、そしてそれを裏付ける(?)学者・専門家たちの「科学的論拠」である。しかし乱暴に言い切ってしまえば、それらの論拠あるいは見解それ自体もまた、特に低線量領域に関しては、「仮説」の域を出ない(とは素人ながらの私の結論である)。(事故直後、善意の友人たちが頴美に新潟からのチャーター便で中国に避難するよう涙ながらに忠告してきたことを思い出す。もしそれを聞いていたら、似たような事情の多くの家庭に起こったように、息子の家庭も崩壊の危機に晒されていたかも知れない。ただし言うまでもないが、その時であっても、このおじいちゃんは一切「忠告」はしなかったはずだ)。
 たとえば私の住む南相馬(全域ではないが)に将来起こるかも知れない放射能禍がペストやインフルエンザのように極めて高い確率で起こるなら、そんなところに孫たちが戻ってくることを、この私が望んでいるわけがない。誤解されることを怖れずに言うなら、人生が、いやもっと正確に言えば「生きる」こと自体が絶えざる選択であり、その選択のいずれにも必ず危険が伴う、ということ。つまり原発禍を逃げたところで、そこだけは絶対に安全だというところは、この地球上どこにも無い、ということである。
 ずいぶん悲観的では、と思われるかも知れないが、事実この世は自然災害、戦争、病、事故、そしてストレス、自殺といたるところに危険が転がっている。もちろんできるだけ危険の少ない道を選ぶべきだが、しかし究極のところそれは「賭け」に似ている。そしてこれまで何度も言ってきたように、どちらかにサイコロを振ったなら、その道をさらに充実させるべく、力の及ぶ限り、しかも元気に楽しく「今を生きる」べきである
 今回の原発事故のあと、あえて希望(第三者には幻想に近いと思われたかも知れないが)を見出そうとした人と、その事態のマイナス面を拡大解釈して過剰な恐れを抱いた人、とを比べると、はじめ前者は圧倒的に少数だった。たぶんこの点が先日の徐さんの言う「同心円のパラドクス」に関して私が感じた唯一といってもいい異見である。つまり南相馬に限って言えば、前者と後者の割合は、事故直後は2対8、それが徐々に6対4(子供のいない家庭では8対2)まで戻してきたということである。
 ここまで言ったのだから、もっとはっきり言おう。息子の一家が十和田に行くときもそうであったし、また今もまったく変わっていない私の考えは、親子であっても人生の大切な決断はそれぞれまったく自由にすべきであって強制されるものであってはならない、ということである。ただ今回、このような形で述べてきたのは、ここで再度私自身の原発禍に対する基本的な見解を明らかにしたかっただけである。そう、あとはそれぞれが自由に判断すべきである。
 美子を介護しながら死ぬまで老夫婦だけでも生き抜く覚悟はすでにできている。もちろんいつかはそれが無理になって、どちらかが、あるいは二人ともが、施設なり病院に入ることも「想定内」であり、幸いながらそのための蓄えは用意している。
 すみませんね、朝からこんなしめっぽい話で。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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