奈落の底から、第二ラウンド

ちょっと記憶が怪しくなっているが、確か二週間ほど前までは、美子を何とか車に乗せ、夜の森公園まで散歩に行っていたのではなかったか。それがどうしても出来なくなり、次にトイレまで行く途中の三段ばかりの階段が登れないようになって…今日で五日目だろうか。いま美子の行動半径は、ベッドから居間のソファーまで、4メートルくらいにまで縮まってしまった。
 予期しなかったような早いペースで症状が進んだのである。これまでは行政の世話にはならず、何とか家族で(今は一人だが)介護しようとしてきた。だから要介護認定も受けないできた。夫婦で払う介護保険料(年に何万円かも知らないが)は、もっと困っている人のための寄付だと思ってきた。
 しかしこのところの状況の変化で、少しぐらいは行政の世話になるのもいいかなと思い、今月の一日に要介護認定の申請書を出すことにした。調査員の自宅訪問、主治医の往診も終わり、現在、週二回開催らしい審査会の決定待ちの状態にある。しかしそれよりも早く症状が進み、バリアフリーの工事を早める必要が生じた。そして出入りの大工さんが年末の立て込んでいる作業日程の中で、急遽都合をつけて一昨日工事をしてくれることになった。
 ところがそこに思わぬ問題が生じた。つまり認定が下される前ではあるが、誰の目にも車椅子の必要性、したがって段差解消の必要性があるのだから、とうぜん工事への補助を申請できると思っていたのである。ところが昨日、工事の現場に来てくれた地域包括支援センターの女性も、その場で彼女に渡された電話の先の高齢福祉課の係員も、補助は事前申請が原則であり、認定が出る前に始めてしまった工事に対しては申請を受け付けることはできない、の一点張り。
 しかし考えてみればこの制度、おかしくないだろうか。つまり今回の場合のように要介護者の病状が書類審査のスピードをはるかに超えた場合、認定までのある一定期間はけっして補助は受けられないことになる。しかも認定が下りて申請書が受理されたとしても、それが実際に効力を発揮するにはさらに一週間近く待たなければならないわけだから、私たちのケースでは、端から補助をあきらめなければならないということになる。要するに審査会にしたって、ひたすら委員の日程の都合で進行しているわけで、要介護者の必要性に合わせているわけではないのだ。
 高齢福祉課の係員も支援センターのお姉さんも、それが決まりですから、とツルンとした(つまりそこに何の問題も痛痒も感じてなさそうな)声あるいは顔でのたもう。たとえば彼あるいは彼女が、日ごろ要介護者の現実に誠実に対処していたとするなら、確かにこの制度には矛盾もしくは不備があり、それを自分たちも感じて何とか要介護者の現状にあった制度になるよう関係各所に働きかけているんです、などと言ってくれたとしたら、我が愛しの瞬間湯沸かし器も沸点に達することなどなかったであろう。(また沸騰したの? そうです)。それに総ヒノキの豪華なスロープをつけたとしても、補助の上限は確か20万円としっかり決っているのだ。だったら事前に見積もりを出せ、現場写真を提出しろ、などとやかましいことをいわず、係員の現場確認と簡単な書類審査で充分とちゃう?
 すべて国民の税金で機能している行政は、確かにさまざまなサービスを国民に提供しているであろう。しかしこと福祉に関しては、書類ではなく、なによりも先ず人間、特に病人や老人などの弱者を優先させることに徹するべきである。私などのように歳はとってもまだ手八丁口八丁の老人ならまだしも、書類申請その他慣れない手続きそのものの前で狼狽したり戸惑っている老人や病人がたくさんいるはず。その人たちの立場からすれば、日本はまだまだ福祉国家には程遠く、不備や欠落が数多くあるはず。
 原発禍の奈落の底から、それまで見えなかった多くのことが見えてきたが、連れ合いのおかげで、今度は福祉行政(不備)の奈落の底から、いろんなものが見え始めた。
 午前中のあの支援センターと高齢福祉課との物別れで、ともかく今回のバリアフリー工事は行政を当てにしないことに決めた。本当は怒りに任せて、要介護認定の申請そのものも取り下げようと思ったのだが、それは短気は損気、と思い止まった。格好をつければ、福祉行政の不備を知るためにも、このまま奈落の底をしばらく歩いてみようと思ったのである。
 で、午後は六号線近くにある介護用品などを扱う「ハッピーケア」という店に車椅子を見に行った。行政からの援助はレンタルのみと聞き、レンタルなどするもんか、と思い、購入のために行ったのである。ところが応対してくれた女性事務員からいいことを聞いた。つまり病人の状態の変化などに合わせて適時交換もできるレンタルの方が、経済的な面だけでなくお客さんの側にとっても有利だということ、しかも介護度認定が下りる前にも、いわばお試し期間としてレンタル可能だと言う。これですよ。このような実情に合った流動的な規則の運用、これが行政には決定的に欠けている。その理由を突き詰めれば、いつもの原因が見えてくる。つまり今の日本社会、とりわけ行政の頭から末端まで、見事に責任逃れの構図が居据わっているというわけだ。
 書類ではなく先ず人間を見ること。そうしないなら、書類は整っていながら、通院の名目で、しかし実際は遊び歩くために、遠距離タクシーを乗りまくっていた偽病人を見抜けないなどの馬鹿な事件が多発することになる。
 今さら介護保険など福祉行政全般の勉強をする気持ちもヒマもないが、確か現在の制度がばたばたと出来上がったのは十数年前のことではなかったか。実は美子の母親がそのころ一度ケアマネージャーの世話を受けたことがあり、その時ずかずかと土足で踏み込んでくるような横柄なケアマネージャーに辟易したことがある。その制度をどうも利用する気になれなかったのはその時の苦い経験があったためである。
 ところが運命のいたずらか、そのケアマネージャーの世話をどうしても受けなければならない事態になったのである。つまり車椅子のレンタル使用に関しても間にそのケアマネージャーがいなくてはならないことが判明。それで支援センターに問い合わせたところ、実は行政の方でも各事業所のケアマネージャーの状況を把握しているわけでないらしい。特に震災後かなりの数のケアマネージャーが他国(?)に避難して、閉鎖に追い込まれた事業所もいくつかあるらしい。
 ここにも問題がある。つまり要介護者が制度を利用しようとしても、資格あるマネージャーがいない、あるいは多忙のため、長いあいだ順番待ちを強いられてしまうという現状である。はっきり言えば、医者など高度の専門知識ならびに技術を要する仕事ならまだしも、さして高度の知識や技術を要さない、それよりもっと大事な福祉に対する情熱と信念を持ち合わせるケアマネージャーの採用にやたら行政が規制をかけるのは馬鹿げているということである。
 第二ラウンドの開始宣言としては少し長過ぎた。長丁場の闘いになりそうである。今日はここまで。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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奈落の底から、第二ラウンド への3件のフィードバック

  1. 山本 三朗 のコメント:

    佐々木先生
    人生初のプログ書き込みに、早速(その日の内)返信いただきありがとうございます。先輩たちみたいに高尚なコメントはできませんが、たま~に自身が感じたことや思いを書き込まさせて貰います。

    まずは若い映画監督の来訪、大変に嬉しく思います。10時ぴったり、翌日改めてDVDとお菓子持参というのが素敵です。「こころ」がありますね。以前、TVでみた先生と奥様の二階での映像をフラッシュバックさせ、微笑んでいました。

    一方、公的サービスに関してですが、私は民間に勤めています。民であれ公であれ、よく言われてことですが大事なのは利用者(お客様)目線に立つことだと思います。

    何はともあれ、小生の母(千葉におります)と先生は同じお年です。寒さが厳しくなっています。皆様が健康であることを祈っています。

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    三朗さん
     そうですかお母様は私と同じ歳ですか。ついでがありましたら、頑張って長生きしましょう、と私が言ってますとお伝え下さい。
     私の息子は、まさに今、雪の十和田を、半年の間に少し増えた家財道具を積んだレンタカーで一人先遣隊として出発し、今晩こちらに着くはずです。嫁の頴美と愛は息子がとんぼ返りした後、22日ごろ今度は三人で南相馬で再出発するために来る予定です。おじいちゃんとしては、ただひたすら道中の無事を祈るだけです。
     それはともかく、寒くなりました。お元気にご活躍ください。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    澤井Jr.さん、いつも温かな書き込みありがとうございます。息子は今朝九時半ごろ妻子の待つ十和田に戻っていきました。青森県は午後三時には道路の凍結が始まるらしいので、道中無事であることを願ってます。あなたは道産子ですから冬の道路については良くご存知でしょう。ともあれ遅くても22日には家族全員で十和田を去る予定なので、お父上など皆さんが期待しておられるように、クリスマスは久し振りに一家五人で迎えられそうです。澤井一家ももうすぐそうなることを願い祈ってます。

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