午前十時、予告どおりに映像作家の田渕英生さんが見えられる。西内君を除いて、新しい夫婦の居室に客を迎えるのはこれが初めてである(あゝ二階の居間が懐かしい!)。床だけは数年前頑丈なフローリングに改造したが、襖(ふすま)その他は50年前とほとんど変わらない古びた十二畳の部屋(その三分の一は大きなベッドが占める)。そこに小さなカメラがセットされ、側の移動式テーブルに、たぶんマイクが据えられる。しかしこちらはそれらをいっさい気にせず、久しぶりの客人に溜まりにたまった思いを一気にしゃべるだけ。といってもおおむね愚痴に終始したが。
要するに最近ほとんどテレビを見なくなったこと。つまり見て聞いているだけで不快になってくるのを止めようがないからである。たとえば、先日来、冷温停止状態のはずの原発何号機かで温度計の一つが高温を示してなかなか下がらない、というニュースが流れた。他の温度計の数値が安定していることから判断して、おそらくその温度計の故障では、との見解も報じられた。素人考えでもたぶんそれだろう、と考えた。(だったら黙って早く直さんかい!)しかしその後、数日(一週間?)に渡ってその同じことが繰り返し繰り返し報道される。
私のようにほとんどニュースを見ない人には、あゝそうかい、ですむが、毎時熱心にニュースを追っている人にはどうだろう? 数日に渡って不安感が払拭されず、ストレスが溜まるだけ。で結局、やはり温度計の不具合(でしたっけ?)。じゃその間の心配は何のため? 新たな問題発生でもないし避難準備を勧めるためでもない。教えてー、その詳細にわたる報道は、結局何のため?
報じるに値しないニュースは流すな、あるいは値するニュースがない時には休めや(でなきゃ、狼少年になるぞい)。
もちろん私は報道規制を求めているわけでも、報道する側の自主規制を進言しているわけでもない。視聴者自身が適切に取捨選択をすればいい話ではある。しかしどうだろう、大多数の真面目な(?)日本人は、せっかく流されるニュースをきっぱり無視することなどできるだろうか? あゝついでに思い出した、美子の住んでいた福島市では、近所の人の日常の挨拶が「せっかくどうも」でした。もちろん本筋には関係のない、美子に言ったら喜んだであろう思い出話に過ぎないが。
で、虫のいい話かも知れないが、簡単に言えば、行政や責任者にはこれから先もやるべきことをしっかり真面目にやってもらいたい。が、私たちは余計なことは心配せずに自分のすべきことを腰を据えてしっかりやるしかない。だからどこかの県知事さんのように、真面目で実直なのは分かるが、どうも腰の据わっていない姿勢が気になって仕方がない。つまり真面目だが「しっかり」していないのが気になる。どこがどうっていう話ではないが、テレビ画面で見るかぎり、どうしてもそう見えてくる。こういうのを何て言いましたっけ? つまり当たる対象がはっきりしないので、たまたま近くの人を叱ったりするの? そう、八つ当たり、とばっちり、でした。
まっ、寅さんの言い草を使わしてもらえば、「それを言っちゃおしまいよ」と言われることを敢えて言わしてもらうなら、近ごろ、とりわけ報道関係者を含めて、本当に自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じる人が余りにも少ないことが気になって仕方がないということです。やっぱ、そう言っちゃちゃおしまいかな。
それでその罪滅ぼし(?)に、今日の午後、美子の昼寝の合間を縫ってばたばたでっちあげた歌詞(の試作品)をちろりとご披露しましょうか。言い訳がましいことを言うようですが、詩でもなく替え歌でもなく、いわば歌詞として作った初めてのもので、演歌などの作詞者の苦労が少しだけ分かりました。まっ、あまりの不出来で自分でもすぐボツにするかも知れませんが…
蛇足ですが、今日の午後、孫の愛が隣町相馬の「バレー教室」に初めてレッスンに行ったことから、昨年の夏でしたか、夜の森公園で出会った少女のことが思い出され、それで急に歌詞を作る気になったのでした。
ケセランパサラン(すべては為るがままに)
1
どこに消えたの銅の兄妹は
大揺れ広場の真ん中から
今は空しく台座が残る
北北東の風、放射線値0.38
ケセランパサラン、コモパサラン
2
テニスコートの球打つ音も
模型飛行機風切る音も
すべては消えていま公園は
風速2メートル無人の境
ケセランパサラン、コモパサラン
3
どこに行ったの私の友は
ねえまた元気に遊ぼうよ
きっとここなら大丈夫
この陽だまりで前のように
ケセランパサラン、コモパサラン
4
午後の広場のしじまの中で
幼い少女の歌声響く
赤いスカート風に舞い
そこで気取ってピルエット
ケセランパサラン、コモパサラン
5
笑い声が小鳥を招く
澄んだ声が花を咲かせる
そう、しっかりそしてまじめに
すべては少女の願いのままに
ケセランパサラン、コモパサラン
いつの世にあっても教育の要諦は、「自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じる」人間を育てることなんだ。これは先生の『モノディアロゴス』(行路社)の中にあった文章です。主体性を持って生きろという事なんでしょう。先生の『宗教と文学』の中で「思想が人間にとって意味を持つのは、それを発見した時でなく、それを掘り下げて、自己の中で血肉化した時である」。と言われてます。掘り下げる作業は、人によって違うし、個人の能力にも影響するでしょう。行動し経験することでわかることもあります。私の場合は繰り返し読むことが多いです。先生が指摘されている「自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じる」人が余りにも少ない事を危惧されているのは、掘り下げる事をしないで、発見で留めていることに原因があるように思います。そして、掘り下げる事を習慣化することが主体性を持って生きるための礎になるように思います。