二組の客人たち

先日の菅・川口さん来訪の日に続いて、今日も実に充実した一日となった。来訪者のことをいちいち報告していたら、それを嫌ってそのうち誰も来なくなるのでは、との心配もどこかにあるのだが、しかし今日のひと組目はスペインから(正確には中国経由)のお客さんだし、もう一方(ひとかた)はこれで三度目の旧知の友人だからクレームが付くはずもないので心安らかに(?)ご報告する。いずれにせよ、テレビの画像で関係の無い車のナンバーまでボカシが入っている昨今の行き過ぎたプライバシー過敏症(マフィアに狙われた証言者の車じゃあるまいし)にはウンザリしているので…おっとこれについて話し始めるとキリがないのでここで止める。
 さて最初の客人は、先日すでに書いておいた、日本で言えばさしずめ安藤なんとかさんという美人キャスターのようにスペインでは超人気のアルムデナ・アリサ(Almudena Ariza)さんとカメラマン(Juan Manuelさん)ご一行である。もちろん友人のロブレードさんが案内してこられた。実は玄関にいらして初対面の挨拶を交わし、夫婦の居間に案内した段階でも、果たしてこれが私へのインタビューのためなのか、それとも南相馬に取材にきたついでの表敬(?)訪問なのか分かっていなかった。だからあれよあれよという間に上着に小型マイクを付けられ、外光の関係でアリサさんと座る場所を入れ替える段階で、あっこれは正式なインタビューだと分かったお粗末。
 世界各地の有名人へのインタビューをこなしてこられた美人キャスターに、一介のスペイン思想研究者が、ただただ本を読むだけのスペイン語能力しか持ち合わせのない元老(ゲンロウではなくモトロウと読んでください)教師がインタビューを受けたのであるから、そのときのロウバイぶりを想像していただきたい。しかしこういうときに有利に働くのは、いわゆる年の功というやつ、平たく言えば動揺まで至らぬ感受性の鈍さで、なんとか言いたいことの三分の一くらいはシドロモドロながら受け答えしたようである。
 30分ほどのインタビューのあと、家の外に出てちょうどやってきた西内君を路地の曲がり角で迎え、二人で話しながら玄関まで来て、次に帰っていく彼を玄関先で見送るという演技までやってのけた。大震災以後、何度か取材を受けたベテランですもの、そのくらいは出来ます。
 そのあと頴美が急遽用意した簡単なランチを皆で食べた。そんな時、まだ三歳の愛は、爺ちゃんの取材慣れとは違って天性の素質なのか、客人が外国人だとさらに外交的に振舞って、始終にこやかに応対する。だからつい彼女の名前は愛だが、これはスペイン語でアモールを意味し、なおかつ「愛」は日本語でも中国語でも同じ発音です、などと命名の由来まで説明する爺さま馬鹿っぷり。
 避難者のための仮設住宅などを西内君の案内で取材するという彼らを見送ったあと、今度は飯舘村役場(現在は福島市に移っているが)取材のために福島に入られたついでに、わざわざ訪ねてこられた朝日新聞の浜田さんをお迎えした。私たち夫婦の新しい居室でたっぷり一時間半ほど久しぶりの対話を楽しんだ。先ずは氏のご専門の福祉関係の話題で、美子のケア・サービスの実体験を興味深く聞いていただいた。要するに悪質な業者を警戒するために基準を厳しくするのはいいが、それによって受益者自身がいろいろ不便を蒙ってしまうという、いつの世にも、どの世界にも起こりうる矛盾。不良生徒を取り締まるために校則などを厳しくすることによって良質(?)の生徒までが息苦しくなることと似通った矛盾。
 簡単な解決策は見つからないかも知れない。結局はそれぞれの市町村の役人や現場の責任者、そしてケア・マネージャー自身の度量というか人間性に帰着してしまう問題。スリムクラブ真栄田君のように、かつては日本のいたるところにいた「ええよっ!」と言える人間が、現在では払底しているという悲しい現実。

 次いでまもなく一年になる原発事故関連の話題。これについてはこのブログでさんざん語ってきたことだし、浜田さんもほとんど同じ見解をお持ちなので省略するとして、氏が下さった二冊の本について触れたい。二冊ともそれから氏が取材される飯舘村ならびに菅野村長の本である。すなわちドイツに派遣された飯舘村の18人の中学生の現地での写真や作文を収録した『未来への翼』(SEEDS出版、2012年)と菅野典雄村長の書いた『美しい村に放射能が降った』(ワニブックス、2011年)である。
 隣の家のお父さんを褒めるようでちょっと複雑な気持ちになるが、ともかく大震災後、彼のとってきたそれぞれの決断を高く評価している私にとって嬉しい贈り物である。たとえば中学生のドイツ派遣など、あんな混乱期によくもまあ決断したもの、とその評価は真っ二つに分かれるだろうが、私は実にユニークでしかも勇気ある決断だと感心している。彼に対する反体勢力の動きはかなりのものらしいが、これからも外野からながら応援していきたい。そんな意味もこめて、村長さんへ私の『原発渦を生きる』を渡してくださるよう浜田さんにお願いした。
 かくして老人(なーんてそんな気には全然なってませんが)にとっては実に有意義かつ充実の一日が過ぎていったのであります。

※追記 菅野村長が、私の生まれ故郷にある大学、姉の母校でもある帯広畜産大学の卒業生であることを巻末の氏の略歴で初めて知った。これで親近感がさらに増した。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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二組の客人たち への2件のフィードバック

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    そうですか、これまた不思議なご縁ですね。私は小学校五年生の秋まで柏小学校の生徒でした。名前のように学校の回りは柏の樹だらけでしたが、五年ほど前に健次郎叔父の車で側を通ったとき、あたりがすっかり変わっていて、ちょっと寂しい再会でした。夏休みの後など、講堂の屋根に鳩が大量の糞を残していたことが思い出されます。その頃の友達とはすっかり音信が途絶えていますが、国際政治学者の進藤榮一さんとは今も時々連絡を取り合っています。そのまま住み続ければ、三中、柏葉高校とやはり柏に関係する学校に進学していたはずです。ですから、毎年柏餅を食べるときには奇妙な懐かしさを感じ続けています。さらには、今は廃線になってしまった士幌線の汽車に乗って祖父母のいる勢多の山に行く途中、車窓から眺めた、延々と続く柏の樹の行列をふと思い出すことがあります。宮沢賢治の「どんぐりと山猫」の世界です。

  2. 阿部修義 のコメント:

     何故「ドイツ」を「菅野村長」は選んだのか。ここに私は興味があります。「みちのくの風 2004 福島」を検索したら村長の随想記事が掲載されていて、こんな事が書かれてありました。「能率主義、効率主義、合理主義、経済性、そしてスピーディーに・・・なる視点からは、本物の精神行動は生まれてこない。(中略)世の男たちよ、金もうけにならないことを、もう少しやってみようではないか。そこに人間としての深みが加わり、さらに人生のデザインの仕業が見えてくる余地がありそうな気がしてならないのだが、どうだろう」。「ドイツ」はヨーロッパ圏で独り勝ちの状況ですが、私は細かい事は知りませんが、東西統合してから国の考え方が変わったように思います。統合前は自国の色を強く出して、近隣諸国を自国流に合わせる事を主眼に国策を展開していたように見受けられます。統合後は近隣諸国に、どうしたら自国が役立てられるかを考え、製造業に力を入れ、儲けより製造開発を重視した展開をしてきたように思います。 ふと、私が思ったのは、「利は義の和」という言葉です。「村長」も「ドイツ」も考え方の根はそこにあるように私は思いました。全くの私の憶測ですが、「村長」の「勇気ある決断」の背景にはそのような共通性があるように思います。

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