春の椿事

お気づきだったかも知れないが、この一両日、とりわけ昨朝から昨夜にかけて、このブログのアクセス数が異常に増加した。初めのうちは喜んでいたが、そのうち気味悪くなってきた。震災直後の新聞記事のときには、確かに一日五千以上のアクセスがあったが、そのときは因果関係がはっきりしていたから別段驚かなかった。通りすがりにちょっと寄っただけで、またいつもの熱心なお友達だけが残ると思っていたからだ。
 しかし今回はその理由が皆目分からない。スペインのテレビ映像や新聞の週刊版に載った記事が原因でアクセスが増えるはずはない。それでいつも管理をお願いしている■やパソコンに関しては大先輩である「■」さんに聞いてみた。
 「■」さんは多分ツイッターからの影響ではないか、と言ったが、■が調べたところでも主な侵入口(?)はツイッターらしい。どういう仕掛けかは想像もできないのだが、■はこのブログがどこからアクセスして来るかも調べてくれた。もちろんほとんどが国内からだが、中にはロシアやスウェーデンなど外国からのアクセスもあるらしい。
 さて今晩はようやく落ち着いてきたようだ。結論を言えば、アクセス数の上下など気にせず、今までどおりのマイ・ペースを守るしかないということ。マイ・ペース? そんなものあったかしらん。ペースといえば、こちらはひたすら美子のそれに合わせて、まるで尺取虫みたいに、遠くを見ずにひたすら足元だけを見ながらゆっくり歩いていくだけ。
 だから週に一度、そうだ明日がその木曜だ、デイ・サービスで美子がいなくなったりすると、まるで歩行器を外された幼児あるいは病人のように、とたんに頼りない気持ちになってしまう。だから、先日も或る新聞の長時間インタビューを受けた際も(記事はずっと先の九月とのこと)一人でカメラに収まる気になれるはずもなく、美子と二人の写真にしてもらった、まるでシャム双生児のように。
 ところで話はいつものように急に変わるが、日ごろからお腹のことや健康のこと(あ、同じことか)を考えて食事以外にも努めて果物を食べるようにしている。幸い安くて美味しいものがほぼ途切れることなくスーパーで売っている。八個ぐらい入ったオレンジの袋である。たしか内田さんとかいう日本人がカリフォルニア(たぶん)で作っている小振りの甘いオレンジで、時々プラスチック製のピーラーが付いている。ピーラーといったってギターのピックをちょっと大きくしたようなものだが、ふつうのミカンより少し皮が厚くて硬いので、実に重宝である。つまりオレンジのへたの方を最初丸く切り取って、次にそこからへたの反対側(何て言うのかな)までまっすぐ皮を切っていく。そのピーラーでおよそ八本ほど皮に切り目をつけていくのだが、そのときつくづく感心するのは、確かに切り目をつけたはずだが、一周して最初の切り目に戻ってきたのに線状の切り口が見えないことである。
 要するにオレンジは切り口を即座にふさごうとするのだ。こんな小さなオレンジなのに、一生懸命自らを守ろうとしている。たぶん時間が経つと、その傷口を完璧に塞いで、おまけにそこをさらに丈夫にすべく硬い表皮で被うのであろう。
 人間だって本当は驚くほどの治癒力を持っているはずだ。もちろん肉体だけでなくその精神も。しかし生活が便利に快適になればなるほどその自然治癒力を弱らせ、ついには喪失してしまう。
 何かあっても狼狽せず、慌てず、たじろがず、とりあえず今できることを落ち着いて、しっかりやること。それで思い出したことがある。話は少しずれるけれど、根っこは同じである。つまり以前、他人の便の始末などとてもできないと思っていた。介護の最大最高の難関だった。最初は狼狽し、慌て、たじろぎ、何をしたらいいのか分からず頭が真っ白になった。しかし今は慌てず、必要なことを的確に処理することができるようになった。
 そのためには、先のことをやたら心配せず、今できることをしっかり真面目に(これは亡きばっぱさんの遺言である)やることだ。かくして介護の最大・最高の難所はなんとか通り抜けることができた。あとは自分自身が怪我をせず病気にならないこと。今晩はちょっと真面目な話に終始しました。ともかく何とか元気にやってます。皆さんもどうぞお元気で。

【息子注】文中の数名の名は思うところあり、いずれも伏字した(2020年10月8日)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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