先日、李建華・楊晶ご夫妻とのメールのやり取りをしたとき、ご夫妻ともに余秋雨を高く評価されておられるだけでなく、楊晶さんは彼の『文化苦旅』の和訳までされておられることを知った〈阿部出版、2005年〉。ちょうどお手元に無かったということで、先日送ってくださった6冊の中には入っていなかったが、幸いその後アマゾンで見つけることができた。日本人との共訳ではなく、楊晶さんの単独訳であるが、見事な、というか完璧な日本語でびっくりした。
迂闊なことには、実は六年ほど前、別の訳者が『文化苦旅』の一部を訳出した『余秋雨精粋』(新谷秀明他訳、白帝社、2005年)を読み感心していたことをそのときようやく思い出したのである。記憶力減退なんてものではないだろう。ともかく六年前、「余秋雨精粋」、「ここは実に静かだ」、「くたばってしまえ!」と三日続けて余秋雨について書いているのだ(2006年1月16-18日)。
ところが、「道士の塔」は、敦煌の遺跡から貴重な文化財が次々と海外に流出した史実を慨嘆する文章であったことは思い出したが、続けて読んだはずの「蔵書の憂鬱」についてはまったく記憶から消えていたことが分かって愕然としている。愕然? いや正直言うと記憶力減退についてはすで諦めているので驚かない。
と、ここまでがいつもの通り異常に長い前振りになってしまったが、昨日の「トローかもね」にここで繋がるのである。わずかな数の蔵書、といってもこの私よりかは多いはず、があるばっかりに、いろいろと気苦労が絶えないことを綴った文章なのだが、いちいち身につまされる内容となっている。
たとえばケチと思われたくないので他人に貸すこともあるが、戻ってくるまで気が気ではない。戻って来たは来たで、面やつれしているのがなんとも気になる。先ほど記憶力減退なんて言ったけれど、貸した本については意外にしっかり覚えている。つまり蔵書に対する思い入れは、宝石や骨董品(そのどちらとも私は無縁だが)に対してとはまったく違う思い入れということなんだろう。
なんて蔵書家の憂鬱あるいは悲哀を余秋雨氏の尻馬に乗っかっていろいろ書いてきたのだが、どこをどう間違えたのかせっかく書いた文章の三分の一ばかりをキー操作を間違えて抹消してしまった。まっ、たいしたことを書いてたわけでもないから諦めよう。今日の収穫、そうだな、その『文化苦旅』の表紙に厚紙を貼って、このところ気に入っている端切れを使って豪華な装丁を施したことかな、阿部出版の装丁家には悪いけど。。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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先生の本に対する「思い入れ」は、今まで書かれたモノディアロゴスの中で「装丁」へのこだわりを話題にされた文章が随所に見られることでわかります。例えば『モノディアロゴス』2003年3月21日「お富士さんはどこに・・・」の中で「先日、迷いに迷って、鼠色の豚革のジャケットを解体した。(中略)これで何冊の本の背革ができるだろう。いい色合いの藍染めの反物もまだかなり残っているぞ」。私は「装丁」へのこだわりはありませんが、一冊の本を20回読み返していて背表紙の部分だけ見事に取れてしまった経験があります。こういう本は「装丁」し直すと見違えるんでしょう。「貸した本」は確かに覚えているものだと思います。友人に推奨できる本はないかと聞かれたことがありました。貸しても本はもどらないことが多いので上げてしまったことがありましたが、本は自分で買わないと駄目だという考えを私は持っています。というのは自分の本でないと書き込みもできないし、読み返したい時に常に手元にないと読めません。一冊の本は単体ですが、その本をより深く理解するためには関係書籍も必要です。しかし、先生のように本を読むことが仕事の人の蔵書の量は半端でないと貞房文庫を見ていて感じました。