もうだいぶ前から美子はテレビなどの映像に関心を示さなくなっているので、もっぱらCDで音楽を聞かせるようにしている。最近までは菅さんと川口さんのピアノとヴィオラのデュオ・スフィアの『歌への旅立ち』がいちばんのお気に入りだが、このところ柳貞子さんの『愛しい日本のうたたち』も気に入っているようだ。
スペイン歌曲の第一人者の柳さんが2000年に出したCDで、荒城の月、五木の子守唄など20曲が収録されている(ピアノ・斉藤雅弘、尺八・山本邦山)。音楽について、演奏について、とやかく言える資格も能力もまったく無いが、それでもこれら日本の歌が実に艶のある伸びやかな声で歌い上げられた優れた演奏であることぐらいは分かる。
スペイン歌曲以外にもポルトガルのファドの歌い手としても第一級の声価を得てきた柳さんと日本の歌はめずらしい組み合わせで、事実柳さんにとってこれが初の日本歌曲集なのだが、そうしたキャリアを持っている人だからこそ、これら日本の名曲がメリハリの利いた、それでいて細やかな情緒を湛えた歌われ方をされていて、美子の中におそらくまだ残っている琴線に響いたのではないか。
それで柳さんに久しぶりにお礼を兼ねたお手紙を差し上げた。すると折り返し、ご丁寧なお返事と一緒に、最近作のCDが送られてきた。『柳貞子 ロルカを歌う』である。録音されたのは1997年、しかし完売されて最近は手に入らなくなっていたものだが、今回、これに柳さんご自身のロルカ詩二編の朗読加わって再販されたものである。ピアノはフェルナンド・トゥリーナ、ギターは柴田杏里で、ガルシア・ロルカによるスペイン古謡13曲、それにロルカの劇中歌8曲が収録されている。さすが柳さんの独壇場である、ロルカの世界、色彩豊かなスペインの町や人々の生活が伸び伸びと表現されている。
ところで柳さんとの付き合いはかなり古い。もちろん以前から彼女の盛名は伝え聞いていたが実際にお付き合いするようになったきっかけは、静岡の常葉学園大時代に遡る。1985年(昭和60年)、その前年から常葉にできたスペイン語学科の学生たちを、それまでまったく馴染みの無かったスペイン語の世界にどう近づけるか腐心していたが、創設二年目の冬に、思い切って清水市市民文化センターを貸しきって、「スペインの夕べ」という催しを学生たちに企画させ、意味もまだ分からないスペイン語の劇をやらせたり、へたくそなギター演奏をやらせたりしたのだが、もちろん集客にはほど遠く、それで柳さんに助けを求めたところ快く引き受けて下さり、ピアニスト同伴で駆けつけてくださったのである。以来、私たちが八王子に移ってからも、美子と御宅にお呼ばれするなど親しくお付き合い願ってきた。
柳さんのスペインでのご活躍を回想した『私のスペイン・愛の歌』(同時代社、1991年)の略歴を見ると1932年のお生まれ、しかも未だ現役で活躍されておられる。その美声は少しも衰えず、今年もまたクリスマス・コンサートを企画し、平和への想いを込めてカザルスの「鳥の歌」をチェロの伴奏で歌われるとか。鍛錬の賜物とはいえ、驚異の持続力、そのお元気にはただただ脱帽するのみ、いや見習わなければと思っている。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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モノディアロゴスの中で先生がこんなことを言われていたのを思い出しました。「理性は間違うが感情は誤ることはない、というのもまた事実である」。2003年5月19日「スカスカの日本語」。
美子奥様の心の琴線に響いたのは、「細やかな情緒を湛えた歌われ方」によるものだと先生が言われる通りだと私も思います。
最近マスコミなどで、学校のいじめの問題がクローズアップされています。私の尊敬している中江藤樹先生は、人間は皆美しい心を持って生まれてきたと常に言われています。藤樹先生は本を読むことは自分の心を磨くためにあるとも言われていました。確かに知識は必要です。しかし、知識優先で教育された子供たちの行き着く先は自分にとって得か損かという功利的発想でしか物事を判断出来ない人間を乱造する場所に学校をしてしまっているように私は思います。感情とは心で、それは良心です。自分が今やろうとしていることを善悪で判断すれば、つまり心で判断すれば、いじめということは絶対にありえないことではないでしょうか。一歩踏み込んで言えば、人間の利己心は妄想以外の何ものでもないと私は思います。
先生が言われた「理性は間違うが感情は誤ることはない」という言葉は真理だと思います。そして、いじめの問題も究極人間の心の問題なわけで理性を振り回して論理的に解決させようと考えても無理だと私は思います。