暮らし安心グラシアン

報じられているような各地の酷暑ほどではないが、この南相馬も暑い日が続いている。今のところ美子も私も熱中症にもかからず元気に、元気に? でもないか、やはりまいってはいるが、でも老夫婦だけの、あるいは一人暮らしの老人たちのことを考えると、弱音は吐けない。どうぞこの暑さが一日も早く去ってほしいと心から願うのみ。
 そんなわけで今日も古本蘇生術は休業。代わりに珍しく一冊の本を続み読けている。著者から送っていただいた本なので、型どおりの礼状を出すのはかえって失礼、一通りは読んでから、と軽い気持ちで読み始めたのだが、これが予想に反して、といったら著者に失礼だが、実に面白い。いや面白いだけでなく音楽との出会いやそれとの格闘(とは変な言い方だが、著者自身は音楽家ではない)を縦糸に、自身の青春と時代の流れを実に的確に、かつ感動的に描いている。ジャンルとしては音楽評論に入るのかも知れないが、私には上質の小説を読むとき以上の感動が随所で感じられ、最近にない読書体験をさせてもらっている。
 ただし長時間ぶっ続けに読む体力が無く、ちびちび読んでいるので、ようやく三分の二に到達しただけ。だから正式の御報告はもう少し先のことになる。
 今日はやはり蘇生術の過程で出会った本について書こうと思う。数日前のことだが、むかし三冊の新書版を合本にしたスペイン語の古典を見つけてきて、装丁のし直しをした。17世紀前半に文豪ケベードと並び称されたイエズス会士バルタサール・グラシアンの代表作『明察と詭計の方法』、『英雄 分別者』、そして『批評好き』の三冊である。黄金世紀の有名作家だからと言って、翻訳もない作家のことをわざわざ紹介するまでもないことだが、実はこれが日本にも既に何冊か翻訳されていることに遅まきながら気づいたのである。
 そのことは蘇生術の合間に、どこかで彼の作品が翻訳されたニュースを小耳に挟んだことがあったと思い出し、念のためにアマゾンで検索したところ、3冊ほどの翻訳があり、中の一冊などはベストセラーになったらしいのだ。それが昨日アマゾンから届いた。『バルタザール・グラシアンの賢人の知恵』(齋藤慎子訳、ディスカバー21、2007年、第13刷)である。この英語からの重訳が出版されたのが2006年ということだから、出版界冬の時代によくもまあ売れたものである。
 要するにハウツーものの一冊として読者の心を捉えたのであろう。1ページ1項目とたっぷりのスペースで人生訓が240ほど並んでいる。そうかこういう本が売れるんだ、と変に感心させられた。しかし中を読んでみると、ニーチェやショウペンハウエルが高く評価したと言われるほどには、実に陳腐な人生訓のオンパレードである。たとえばこんな風に。

風向きを調べる

 ことに乗り出す前に、それがどのように受けとめられるか考えてみよう。やろうとしている新しいことが安全だと確信できれば、新たな自信が得られて、さらに元気づけられるはずだ。
 前進も白紙撤回もまだ可能なうちに、関係者に打診すること。これは、法律でも愛でも政治でも、いずれにも同じように役立つ知恵だ。

 よくも言ってくれるよ、バルタサールさん。これはまるでひところ流行ったKYの勧め、つまり「空気を読む」そのまんま。聖職者にしてはまたなんと世俗的な知恵を授けてくれることよ。それが災いしたかどうか、彼は文学的には時代の寵児にはなったが、宗教者としては問題多く、さらに仲間うちからの妬みも加わって最後は不遇のうちに死んだとか。
 簡単に言えばここに述べられているほとんどすべての処世訓は、超個人主義のスペインでは実に斬新な知恵に思われたかも知れないが、われわれ日本人にとっては今さら教えられるまでも無く骨がらみとなった「知恵」ばかり。たとえば西欧の修道生活にとっては厳しい沈黙の規則などは、それがなかったらおしゃべりが止まらない人たちのための規則ではあるが、もともと口数が少ない日本人にとっては無くてもいい戒律であるのと同じであろう。これは五年間ほどその修道生活の経験がある貞房氏が言うことだから間違いありません。
 ところでグラシアンという名前は、スペイン政府がスペイン研究奨励のために今も続けているはずの基金の名称でもあるので、ひところ我が家にもその知らせが舞い込んだ時期があった。時々面白い言葉遊びを思いつく美子は、そのころテレビで流れていたコマーシャルの名前と似ていると言って我が家でこんなギャグを流行らせたことを今思い出した。つまり水道などのトラブルに出張してくれる会社のコマーシャルである。
 「暮らし安心グラシアン」もちろん本当の文句は「暮らし安心クラシアン」である。
 グラシアンという皮肉と警句と意外性、つまり奇想主義の親玉が、二十一世紀の日本では、便利屋さん並みの処世術の大家として紹介されているという、まさに奇想天外というか、まあ何とも面白い成り行き。だから人間て、文化って面白い。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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暮らし安心グラシアン への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     人生訓というのは言った人の生き方から出て来なければ正に「骨がらみになった知恵」の押し売りのように私は思います。人生において良いことを「する」ことより良い人間で「ある」ことが大切だという考えを私は持っています。「世俗的な知恵」の多くは一時期だけ人々から賞賛され受け入れられるんでしょうが、その大半は歴史の中で風化していくもののように私は思います。

     普遍的なものと大衆的なものの違いは前者が価値の基準を物事の高さ、深さの次元に置いているのに対し後者は世上の広がりと物事の量にそれを置いていると私は考えます。最近はどうか知りませんが私が学生の頃、やたらマンモス化し営利を貪っている大学がありましたが、教育という聖なるものとはかけ離れていると思います。

     世の中にたくさんの「人生訓」を目にしますが、真の「人生訓」は普遍的であり、それを言った人の生き方に必ず普遍的価値を見つけるもののように思います。

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