気がついたら秋が直ぐ側に座っていたという感じだ。昨夜は初めて美子に毛布をかけてやった。私も夜中、タオルケットだけでは寒くなり、足元に畳んであった薄い夏布団をかけた。
さしもの暑さももう戻ってくることはあるまい。暑さが遠のいて、さて次は? 別に何がやってくるというわけでも、これから何かに挑戦するわけでもないのだ、と考えたら、急に心細くなった。こうやって生き続けていく、そんな当たり前のことがなんだか不思議なことのように思えてきたのだ。
物思う秋、耳の側でがんがん太鼓を叩かれながら無理やり歩かされたような暑い夏が終わって、さてこれから何をしようか、などと戸惑っている自分がいる。そんな折、思いついて旧師の消息をネットで探したらこの五月に亡くなっていたことが分かった。享年84歳。そうかそんな歳になっていたのか。そういう自分も先月末73歳になっていた。知っている人が次々と亡くなっていくのも無理はない。
午後、昼寝のあと、なんだか無性に志賀直哉の小説が読みたくなった。「焚き火」という短編である。以前、今日のように寂しい気持ちになったとき、その短編を読んでずいぶんと心が慰めらたことを思い出したからだ。ところが書棚から引っ張り出した短編集(『城の崎にて』、新潮文庫、1966年、33刷)の最初にあった「菜の花と小娘」に目が行き、そちらを先に読み直してみた。志賀の作品の中でも大好きな一編である。あの気難しそうな志賀にこんな優しい童画が描けるとは、といつも驚かされる小品である。
次いでこの短編集と一緒に合本になった『小僧の神様』、岩波文庫、1967年、第44刷)の中の、これまた大好きな「真鶴」も読みたくなった。凄いです。いわゆる名文と言うのではないが、文章の一つ一つがすとんすとんと腑に落ちていく。やはり志賀直哉は小説の神様だ。そうだ、ちょうど十年前の今ごろ、この作品について書いたものがあるので、以下にコピーする。つまり今回は「焚き火」再読に至る前になんとか気が晴れてきたわけだ。「焚き火」についてはまたの機会に書くことにする。
真鶴
はっきりしない天気が続いたあとの久方ぶりの上天気である。真夏時よりかは小振りだが、間違いなく夏の雲を見ることができた。夕刻が迫るにつれて辺り一面に黄金色の光の微粒子がばら撒かれ、一瞬季節感が狂い、今日が汗みずくの真夏の一日だったような錯覚に襲われた。しかし間違いなく季節は既に秋に入っている。線路向こうの日用品を売る大型店で本棚に使う木材などを買っての帰路、真向こうに白い大きな雲の峰を眺めながら陸橋を渡っているとき、急に真鶴の白茶けた峠道を思い出した。いや、私自身実際にその峠を越えたことはない。志賀直哉の『真鶴』を読んで以来、私の心の風景の一つとなった峠道である。
ところが家に帰って読み返してみてびっくりした。小説の中の季節は年の暮れだったのだ。どうして盛夏、あるいは少なくとも今日のような晩夏と思いなしていたのだろう。たぶん、真下に青い海原を見ながら強い陽射しの中を歩いていく少年たちのイメージから、真夏を連想してしまったのであろう。彼らは真鶴の漁師の子で、父親からもらった歳暮の金をもって小田原まで二人の下駄を買いに行く途中である。しかし彼らは賑やかな町中でふと出会った法界節(月琴を鳴らして歌い歩く俗謡)の一行の後について行ってしまう。正確に言うと、二人のうちの兄の方が、夫婦とその娘らしい一行のその母親に魅せられてしまうのだ。しがない旅芸人が少年にとってはこの世に二人といない美女に見えたのである。「奴(やっこ)さんだよう」と踊りながらのお囃子の声も、少年にとってはまるで天女の声に聞きなせた。
十二、三歳の少年の、この切ないような心の動きは、だれしも記憶の中に持っているだろう。かく言う私にも、人並みにこのわけの分からぬ新しい心の動きに戸惑った経験がある。いつの頃だったかははっきりしないが、『角兵衛獅子』の映画を見たのか、それとも歌だけからの連想か、一時期美空ひばりに似た色の黒い女の子に夢中になったことがある。といって名前も住んでいるところも知らぬままに終わったが、でもあの胸が締めつけられるような切ない体験は、今ごろになって貴重な宝のように思われてくる。
あの漁師の息子はその後どのような人生を送ったか。いくつもの挫折と妥協の末に、平凡な一生を送ったかも知れない。しかしあの真っ青な真鶴の海と白縮緬の男帯を背中で襷に結んだ天女のことは決して忘れなかったであろう。(2002/9/18)