相変わらずというか、弛(たゆ)みなくというか、今日も古本蘇生術を続けている。もちろんそれに没頭しているわけではなく(介護の合間を縫っての手遊びだからそれは無理)、蘇生術はいわば日常的必要事のつなぎのようなもの、言うなれば蕎麦を美味くするためのヤマイモのような…自分で言いながら、何て馬鹿な喩えかな、と思っている。
めぼしいものはあらかた手術を終えた…いやいやまだまだ、でも文庫本の方はあらかた終わりに近づいている。布表紙の分厚い(なぜって、合本が多いので)文庫本が書棚にずらっと並んでる様子は、我ながらうっとりする眺めである。
で、今度は蘇生術というより救済術と名づけた方がいい作業を始めた。つまり合本にもならず一冊だけ薄汚い格好で、背文字も消えかかっている本が気になり、かといって立派な(でもないか)布で装丁するまでもない本を「救済」することである。たとえば今日救済されたのは、ハルナックの『基督教の本質』(山谷省吾訳、岩波文庫、1958年、第8刷)である。著者のハルナック(1851-1930)はドイツの神学者で、この講義録が1900年に出版されるや大きな反響をよび、瞬く間に各国語に翻訳されたらしい。
確かに私の本だが、でも読んだ記憶はまったくない。黄色く変色した本文のどこにも読んだ形跡が見られない。でもともかく救済しなければ。硬めの紙で表紙を補強し、それを古いハンカチで包んだ。古いハンカチだけれど、し終わってから気づいたのだが、ルドルフ・バレンティノV1921という白い字が残っていた。そして背中と表紙に新たに印刷した題字を貼る。みごと救われた!
さてこうなると、読まずにまた書棚の隅っこに眠らせておくのは勿体ないような気持ちになる。買っても読まなかったのは著者がプロテスタントの神学者だったからか? しかしいま私は、すべての宗教と等間隔にある、つまり遠く離れている。その私からすれば、今さらカトリックとプロテスタントの違いなどどうでもいいことだし、基督教の本質とは何か、なども特に読みたいテーマではないのだが…
すべての既成宗教から等間隔にある、といっても、白状すれば自分なりに確固とした立場を固めたというわけではない。自分の姿勢に自信があるわけでもない。これまでの人生の大半がその影響下にあったキリスト教とすら、ケジメをつけないまま今日に至っている。なんとか死ぬまではっきりケジメをつけなければ…
おや柄にもなく信仰告白、じゃない不信仰告白を始めそうになったよ、この人。くわばらくわばら! くわばら? そう言えば、むかしこの名前の同僚がいたっけ。そうだ彼はとつぜん亡くなったのだった…彼の霊の安らかに憩わんことを!
でもなぜクワバラクワバラと言う? 辞書で調べる。ありました。この災難避けのまじないは、一説によれば死後に雷神になったという菅原道真の領地桑原には落雷がなかったかららしい。これでひとつ利口になりました。
不信仰告白は辛うじて踏みとどまったが、ついでにひとつだけ私の覚悟を言おう。今に始まったことではなく、残念ながら昔から、大きな戦争小さな戦争、いずれの場合にもなぜか宗教絡みのものが多い。それで私の超辛口のコメント。
(いわゆる)神を信じる(一部の)者たちは、あたかも神がいないかのように戦争に明け暮れている。でも世界の平和を何よりも激しく希求する私たちは、あたかも神がいるかのように振舞っていきたい、世々に至るまで、アーメン(かくあらんことを)!
※追記 ボクサーがコーナーから出てくるときに十字を切ったりする場面にいつも思う。おいおい、きみ何祈ってるの? 相手を完膚なきまでブチのめすこと? でもそれっておかしくない? もしきみが神を信じてるとしたら、祈りはこうなるべさ。「神様、ちょっくら目をつぶってておくんなせえ。俺いまからこいつをブン殴ってきます。奴もお前さまの可愛い子でがんす。そいつを殴るのはちょっくら気がとがめますが、でも戦わねえと、おっかあとガキを食べさすことができねえでがんす。そいでちょっくら目つぶってておくんなせえ」
でも戦争となれば、目つぶっててもらっちゃーいけないんだわさ。
先生の超辛口のコメントを読んでいてヒルティの言葉が頭に過りました。
「キリスト教も、多くの事柄と同様に研究によってではなく、それを試してみることによって初めて学ぶことができるのだ」。(『幸福論』キリスト教序説 岩波文庫)
先生の言われる「神を信じる」のでなく「神がいるかのように振舞っていきたい」という言葉にキリスト教を熟知されている先生の叡智を感じました。そして、ヒルティがこう結論づけています。
「まずキリスト教の序説、つまりキリスト教が自明だとしているその前提条件を、いっそう厳密に吟味し給え。そして、君がある限りの力でその条件に沿うて生きようと決心することができたならば、その上で初めて、キリスト教の教義を学び給え。たしかに、これと反対の行き方が世間普通のものであり、われわれの学校や教会の宗教教育で一般に指示される道もまたそうである。しかし、そうした道を歩けば、時としてなお『道に獅子』が待ち伏せしていることもあるが、この論文で勧められる小径には、そのような恐ろしいものは出て来ないのである」。