渚にて

気軽に催し物に出かけたり旅行をしたりすることはできなくなったが、現在持っている本(「貞房文庫」所蔵)を見ているだけで、毎日、少なくとも空想世界の中ではあるが、かなり広い時空間を旅することができ、いろんな人や出来事と遭遇することもできる。たぶん負け惜しみに聞こえるかも知れないが、少なくとも(?)嘘ではない。今「見ているだけで」と言った。つまり必ずしもきちんと読んでいるわけではない。本当の蔵書家に比べれば、恥ずかしいほどの数の本しかないが、それでも自分に残されているかも知れない時間のことを考えると(こういう場合最大限の時間を想定するわけだが、それでも)、残念ながら全部を読む時間も体力もない。だから「飛ばし読み」と「スポット読み」を適当に織り交ぜて本と付き合っている。
 たとえば今日、表紙も本文も黄色に変色した汚ない一冊の文庫本に出会った。ネビル・シュート著『渚にて』(井上勇訳、創元推理文庫、1965年)である。読んだ記憶のない本だが、副題の「人類最後の日」を見て思い出した。昨年、大震災のあと、確か人類最後の日を描いたグレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナー主演の映画があったなあ、と思い出し、ついでに原作もあることを調べ出し、二つともアマゾンから手に入れたのだ。もしかするとこれらについては既に書いたかも知れない、と右の検索エンジンで調べてみたが、二つとも引っかかってこない。しかし世の終わり、神の審判を歌ったグレゴリアン聖歌『ディエス・イレ(怒りの神)』については、四月十一日の「或る終末論」で書いているので、注文したのはたぶんそのころだ。でもあの混乱時にそんな余裕があっただろうか、注文はもっと後のことかも。
 それはともかく、その二つとも観も読みもしてなかったのだが、今日、本の方があまりにもみすぼらしいので、急遽蘇生術を施してやることにした。第三次世界大戦が勃発して人類が最後の日を迎えるという、SFにしては深刻な題材を扱った小説なので、そのくらいの厚遇には値するだろう。いまのところ読む気はちょっと出てこないが、ただ巻頭のエピグラフは気に入った。美子の大好きなT. S. エリオットの詩の一部である(The Complete Poems のp.85~86参照) 。

 このいやはての集いの場所に
  われら ともどもに手さぐりつ
  言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう……

 かくて世の終わり来たりぬ
  かくて世の終わり来たりぬ
  かくて世の終わり来たりぬ
 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに

 どの詩篇が出典なのか、全集を探してみたが見つからない。いつかゆっくり探すことにして…小説のタイトルはこの詩からとったのであろう。というより、この詩から想像を膨らませて小説を書いたのかも知れない。ともあれ、いつもは世の終わりなど考えたこともない私でも、さすがに大津波や原発事故のあと、それについて少しは考えたわけだ。地震や津波という自然災害で人類が滅亡することが無いとしても、愚かな人間が作り出した核兵器や原発事故で地球が目茶目茶に破壊される可能性はある。しかしたとえそれら二つのものに耐え抜いて人類が絶滅を回避しえたとしても、この地球が永遠に存続するという保証はどこにもない。物にはすべて終わりがあると考える方が自然である。では地球の終わりはいつ? もしかすると何人かの天文学者、あるいはホーキンス博士のような人が、地球の寿命を既にはじき出したのだが、世の中混乱するから黙秘しているのか。
 しかしもし地球に寿命があるとしたら、あるいは人類最後の日がいつか必ず来るとしたら、私たちの生き方、生きる姿勢は根本から変わるのでは? たとえばちっぽけな、それも無人の島を巡って国同士が争っていることがどれほど馬鹿げたことかはっきり見えてくるであろうし、いまインドネシアかどこかで仏教徒とイスラム教徒が何百人と殺しあっていることが、どれだけ愚かで無駄(?)なことか分かるであろうに。
 世の終わりという事実あるいはそういう考え方を前に、人には大きく二つの姿勢があるだろう。もしも終わりがあるなら、それまでせいぜい自分たちの欲望を満足させることに邁進するか、それとも限りがあるからこそ馬鹿な争いをやめ、互いをいたわり、限りある資源を仲良く分かち合うか。さてどちらだろう? どうも確率的には、というより願いとして後者であってほしい。単純な性善説と言われるかも知れないが、人間存在に対してそれくらいの信頼は持ち合わせている。
 するといま地球上で愚かな殺戮合戦をしている前述のような人たちは、この世に終わりがあるとしても、自分たちの信じる神様(仏様?)がそれを許してくれるだろうし、自分たちには最終的に幸福な来世が約束されているなどの甘えからあのような愚挙に及んでいるのか。いやいやそんな小国のことを笑ってなんぞいられません。アメリカといわず、今世紀ばかりか前世紀、二つも世界大戦を繰り返した大国たち(その中に不肖わが国も含まれますぞ)も、神が自分たちを応援していると考えてるからこそ、あのように性懲りなく戦さをしてきたのだろうか。いつでしたか、どこかの政治家(首相でしたっけ?)は我が国は神の国だなんてことのたまいましたな。
 先日も言ったことだが、ボクサーが十字を切ってリング中央に出て行くようなことをやってきたわけで、考えてみれば笑止千万な話だ。いやいや戦争をするにはそれなりにのっぴきならぬ理由が……そう? そんなの屁理屈とちゃう?
 このあたりからちょっと支離滅裂になってきましたが、しかし原発事故以後、世の中、おかしなことがいかにもそれなりの理由があるかのように取りざたされていること自体が、実にグロテスクに見えてきたんですわまたもや埴谷大先輩の言葉をお借りすれば、実にグレーツ極まりないことが多すぎる。
 そんな折、たまたま(こじつけじゃありませんぞ、本当です)本棚の隅にポール・ジョンソンという人が書いた『神の探求―ある歴史家の魂の旅』(高橋照子訳、共同通信社、1997年)を見つけた。奥付けの上の鉛筆書きによると、息子が買ったものらしい。著者はイギリスの歴史家でジャーナリストでカトリック教徒ということだ。先ほども言ったが、たぶん震災前だったら次に紹介する「本書の目的」という冒頭の一文など、ふーんなるほどごもっともっすなー、と読み飛ばしたかも知れないが、今はこの手の文章にひっかかる、というより、正直言うと何を馬鹿なことを言っとるか、と怒りさえ覚える。ともかくこういう文章である。

「…もし神が存在するなら、そしてこの世の生が終ったあとにまた別の生があるなら、その結果は重大だ。地上の生活の一日一日、それどころか一瞬一瞬がその影響を受けずにはいない。この世の生活は永遠の生にいたる準備段階にすぎず、つねに未来を念頭において暮らさなければならなくなる。一方、もし神が存在しないとしたら、その結果もやはり重大である。この世の生が唯一の生であり、自分以外のだれかに義務や責任を負う必要はなく、自分自身の利益や快楽だけを考えればよいことになる……」

 へーそうかいな? でもそんな簡単に割り切っていいの? ちょっときつい言い方になるが、あなたはそんな単純な理由で神の存在を考えてるの? ということだ。先だっても皮肉交じりに言ったことだが、世の多くの人(その中には大勢の有神論者が入っている)はあたかも神が存在しないかのように生きている、と言ったが、なるほど上述のような単純な理由で神を信じているんだったら、そりゃーリング上のボクサーよろしく、簡単に十字切って戦争をおっぱじめるわな。
 ちょっと話が込み入ってきたので、大急ぎで本当に言いたいことを言おう。つまり人間がこの世を真剣に、真面目に、有意義に、そして平和裡に生きるためには神存在を想定しなければならないとしたら、そんな神は余分である。つまり神を想定しなくとも、人間は充分に真剣に、真面目に、有意義に、そして平和裡に生きようと努めることができる、いやそうしなければならない、ということだ。だいいち、そんな理由で神様を担ぎ出したら、神様に失礼とちゃう?
 それにはいろんな理由があるが、まず神の審判を待たなくとも、人間の記憶の法廷という厳格この上ない審判が待っている。何? そんな法廷など極東軍事裁判並みのいい加減で恣意的な法廷だというのか。君、分かっちゃいないねー、私の言っている法廷とは人間一人ひとりが魂の奥底に持っている濁りの無い鏡のような良心でもあるし、たとえばこの間の仏教徒とイスラム教徒の無残な殺し合いの際に逃げ惑う幼い子供たちの恐怖に満ちた、しかし濁りの無い悲しみに満ちた眼差しという、どんな裁判にも匹敵する厳しい法廷のこと良心の存在から神存在の証明の道がある? そう、でもいまの問題はそれと少し違う。
 このあたり、必要な説明を外しているので(わざとじゃないが面倒くさくて)分かりにくくなりました。ともかく、このおじちゃん(自分としてはまだおじいちゃんではありませなんだ)、この世にあたかもそれ相当の正統な理由があるかのように罷り通っていることのほとんどに、心底怒っているのであります。何? あの天下のヒタチがイギリスの原発開発に乗り出した? ざけんじゃない、ヒタチのものなぞもう買わないぞ。何? 外務省はメスプレイ、おっと間違えたオスプレイの全国的な導入を提案してるだって? ざけんじゃない、沖縄の人たちがオスプレイに反対しているのは、基地存続そのものの象徴的存在として反対してるんだぞい……フガフガフガ、ガクガクガク、すみません瞬間湯沸かし器が壊れてしまいました、この辺で今日のところは終わりにします…
(影の声、だから言ったじゃない、長時間作動させるとぶっこわれるって……舞台暗転)


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)からいただいたお言葉を転載(2021年3月13日記)。

中身の詰まった文章ですからどこからでも相槌を打ちつつ対話に参加出来そうですが、取りあえずは項目の「渚にて」に目を引かれます。映画が公開されたのはわたしがまだ中学生のころでした。田舎町では劇場にかからず、後年新宿かどこかの名画座でようやく見ることが出来たのだったと思います。
メロドラマとしての感傷が批評家の不評を買っていたように記憶しますが、わたし自身はなんども見た映画です。グレゴリー・ペック扮する艦長の沈着な立ち居振舞いがよかった。映像にも目を見張りました。ジュゼッペ・ロトゥンノという名匠について知ったのは後年のことです。当時の特撮技術も駆使することは出来たでしょうが、ほとんどの場面が実写で、それだけに異様なリアリティが感じられました。無人と化したメルボルンの街頭風景のなかに新聞紙か広告ビラかが風に舞うというイメージが焼きつきましたが、数年前に映画に詳しい友人と語り合ったとき、確かに無人の街は映るが紙切れが風に舞う場面はないと言われ、さては自分で映像を改竄したらしいと思い苦笑したことでした。
オーストラリアの国歌ともいうべきワルツィング・マチルダの曲を覚えたのもこの映画のおかげです。
ところで、原作も英語と日本語訳を持っていたのですがいま見当たりません。おそらく岩手の書庫にでも疎開していると思われます。原作に掲げられているエリオットの詩は読んだことがあるようにも思います。出典をすぐには言い当てられない始末ですが「うつろな人間」ではなかったかと。「世界はこのようにして終わる。」
エリオットは第一次大戦後の西欧世界は終わったと見ていました。ヴェルサイユ条約も列強のまやかしにすぎないと見抜いていました。
映画製作当時は冷戦時代、キューバ危機より数年前ですが核戦争の危機に警鐘を鳴らすために作られた映画ですから、寓意は明白に切羽詰まったものだったわけです。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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渚にて への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     人間は誰もが自分の意思とは関係なく、この世に生まれてきて誰もが必ずこの世を去るわけですが、この事に意味があるのかということを考えることがあります。母がたまに「生きているのは肉体的に大変なのよ」と言って、人間が老いて生きることの苦痛を口にすることがあります。

     人間は死んだら何処かに(天国のような場所)行くと考えて生きている人は多いと思います。私もそう思って生きてます。しかし、その根拠はないというのも事実ですが、魂は永遠の生命を持っていると私は考えています。この世に生まれた意味があるとすれば、この魂を生きている間にいかに清め、いかに高い価値あるものに磨いていけるかということのように私は思います。

     先生の本を読んでいると「魂の重心」、「魂の液状化」、「魂の兵役」などの先生独自で創られた言葉が要所、要所に出てきます。それは人間の魂に対する問いかけがテーマとして根底に常にあるからだと私は思います。

     先生が10月16日の「くわばらくわばら!」で「あたかも神がいるかのように振舞っていきたい、世々に至るまで、アーメン!」と言われた言葉の根底には「神を想定しなくとも、人間は充分に真剣に、真面目に、有意義に、そして平和裡に生きようと努めることができる」という先生の人間としての温かさを感じます。それは人間の尊厳を確信しているからなのかもしれません。何故か宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩が頭に浮かびました。 

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