真の復興のために

私の机の前の手造りの棚に、時おり、まるで恐山の山腹にはためく護符のように(と言うんでしたっけ?)断片的な言葉が書かれた紙片がセロテープで貼り付けられている。不意にひらめいた想念をなんとか書き止めようとしたその痕跡である。だから時間が経つと、何を言おうとしているのか皆目見当もつかない語句が並んでいたりする。いまちょうど目の前にある紙片には、「愛へのプレゼント ハングル」とだけ書かれている。これは書いてからそう時間も経ってないので何を意味しているかは分かる。
 それでも一月以上も前のことだ。ここにも書いたが、鄭周河さんが写真展・ギャラリートークのすべてを無事終え、南相馬を離れる前に拙宅にご挨拶に来られたときに、愛へのプレゼントとして『松の子ピノ~音になった命』(北村笙・文、たいらきょうこ・絵)という絵本を下さったのだが、その献辞はすべてハングルで書かれていた。それ以前、私に下さった写真集にもハングルだけの献辞だったが、そのことがきっかけになって私の七十の手習い・ハングルへの挑戦が始まったのだが、愛はまだ四歳、彼女に私のような一念発起は無理というもの。しかし今回もまたそのことがきっかけで私自身がいろいろ考え始めた。
 愛には覚え始めたばかりの「かな」とはまるで違うハングル…ここで、なぜハングル文字と言わないかといえば、ハングルとは「大いなる文字」という意味で既に「文字」の意味が込められているからだ。世界の三大宗教の場合、キリスト教、仏教と並べて普通イスラム教と言うが、正確にはイスラムという言葉それ自体が「教」の意味を含んでいるのでイスラムとだけ言うのが正しいのと同じことである。
 言わずもがなの寄り道をしたが、本題に戻る。たぶん愛の幼い頭に、その奇怪な文字は強い印象を残したことだろう。そして意味は分からぬまでも、あの背の高い優しい異国のオジサンが書いてくれた字の意味を何とか知りたいと、いつかハングルの勉強を始めるかも知れない。ウナムーノは生涯、外国語を含めて言葉に対する強い関心を持ち続けた人だが、そのきっかけは、幼いころ、父が客人と話す不思議な言葉(実はフランス語だった)に強い興味を覚えたからだという。
 要するに言いたいのは、私たちにとって異国の言葉が未知の世界へと誘う強力な磁場を持つ入り口になるということ。ふつう旧約聖書のバベルの塔の話は、人間の傲慢を戒めるために神が互いの言葉が通じないようにしたとされているが、本当は人間が互いの違いを認め合ってより深い理解へと進ませるためのものであった、と解した方がいいのではないだろうか。経済のグローバル化についてはよく分からないところもあるが、しかし言語や文化のグローバル化は決して人類の幸福に繋がるとは思えない。むしろ表面的な理解には役立つだろうが、互いの立場や違いを認め合った上での深く、そして真の理解を逆に阻害するのではないか。
 だから今テレビでしょっちゅう流される英語が話せれば国際人になれる式の広告を見るたびにいよいよ日本が浅薄で底の浅い国になっていくのではとの危惧を持っている。21世紀の日本が世界の、とりわけ東アジアの、平和に貢献できる真に文化的な国になるためには、英語だけでなくせめて選択科目としてでもいい、中国語と朝鮮語を、それも大学生になってからではなく、中学生あたりからでも学べるようにすべきだとさえ思っている。第一次伊藤博文内閣の文相だった森有礼(ありのり)がフランス語を国語にすべきだと言った提言よりはるかに理にかなった、というかまともな考えだと思う。
 しかしそんな考えなど今の政治家たちのだれにも思いも及ばぬことだろう。でも先日も言ったように、教育の地方分権化がもう少し進み、それぞれの地方なり学校が独自のカリキュラム、この場合は外国語科目だが、を組めるようになっていけば、たとえば南相馬市の第一中学校では英語のほかに朝鮮語を選べ、第二中学校では中国語を選べるなどのことができるようになれば、実に面白いのではないかと夢想する。そのうち韓国や中国の大学に留学する若者が出てきたり、もちろん韓国や中国からも日本に留学する若者が出てきたり…
 夢? もちろん今は夢でしょうなー、でもいつかそんな時代が来るかも知れないと想像するだけでも元気が出てきません? かつては国境線をめぐって血と血を流し合ったアルザス・ロレーヌ地方が、いまドイツとフランスの相互理解の眼に見える成果を挙げている場所へと変貌していることはこの際貴重なヒントとなる。
 話は大きく変わるが、このところ古代や戊辰戦争時代の東北について書かれた本をいくつか飛ばし読みしている。新島八重の大河ドラマに刺激されてではない。だいいちこれまで一回も放送を観たことがない。べつだん意地を張ってるわけではない。今のところ喧伝されているような切り口での彼女にはまったく興味がないからだ。ところで古代史といっても史書の類ではない。高橋克彦の『火怨――北の耀星アテルイ』や澤田ふじ子の『陸奥甲冑記』※※などであり、戊辰戦争といってもそれを直接扱った本ではなく、石原真人の『ある明治人の記録』※※※などである。今日はまた、同じく高橋克彦の『天を衝く――秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実』が届いた。
 これらの本を読んで東北人の矜持を改めても持とうなどと思っているわけではない。しかし古代から蝦夷(えみし)と蔑称され、大和朝廷からは異民族視され、征討の対象とされた東北についてあまりにも無知であったことを恥じ入るためである(?)。たとえばスペインでは、カタルーニャやバスクなど、確かに一時は国を分裂と対立にまでエスカレートさせた時代があったとしても、それぞれが独自の文化や伝統を豊かに引き継いできて、それがいまスペイン文化全体の奥行きと深さを保持することに貢献している事実から有益な教訓を得られるのではないだろうか。
 たとえば『陸奥甲冑記』の冒頭に、長岡京への遷都の話が出てくるが、そこにはこう書かれている。

「桓武天皇は、自分を古代中国の帝王に擬していた…律令体制の衰微、陸奥蝦夷の脅威、時代はまさに強力な政治的指導者を望んでいる…その精神的土壌は、天皇が百済帰化氏族の血をを享けていることによる…」

 つまり、要するに、日本という国を、太古の昔から、天皇を頂点とする生粋の大和民族の国だったというような静的・固定的で誤った認識から一日も早く脱却して、実はさまざまな人間集団やさまざまな文化を内包しながら複合的に形成されてきた国なのだと、もっと動的・流動的な捉え方をすべきだということである。さらに、日本という国が中国や朝鮮とどれだけ深い繋がりを持った国であるかをしっかり認識すべきだということ。簡単に言えば、これらの国々はまさに日本とは兄弟の国々(特に朝鮮とは天皇家の祖先の血を介して)であり、真の友好と相互理解を深めていかなければならない国々なのだということである。
 ついでに白状すれば、これまでハングルは失礼な言い方だが何か得体の知れぬ幾何学文、つまり直線、曲線を組み合わせた抽象的模様のように見えていた。しかし鄭周河さんの流れるような達筆のハングル、そして現にハングルに印字された拙著を見ているうち、当たり前のことなのだが、ハングルが初めて意味の充満する美しい文字群に見えてきたのである。こんな当たり前のことさえ気づかないでいる日本人は、きっと私だけではないであろう。
 実はさらに恥ずかしいことを白状すれば、手書きでハングルを入力できるシャープの電子辞書をアマゾンから購入したはいいが、雑事に追われて未だに使っていないのだ。新しいもの、ましてや新しい外国語などに容易には対処できない疲れきった我が頭脳には、ゆっくりと楽しみながらの慣らし運転が当分(いや最後まで?)必要なのだろう。慌てない、アワテナイ(これ一休さんの口癖でなかった?)。

追記 いずれも宣伝文からそのまま紹介する。

辺境と蔑まれ、それゆえに朝廷の興味から遠ざけられ、平和に暮らしていた陸奥の民。8世紀、黄金を求めて支配せんとする朝廷の大軍に、蝦夷の若きリーダー・阿弖流為は遊撃戦を開始した。北の将たちの熱い思いと民の希望を担って。朝廷の大軍を退けた蝦夷たちの前に、智将・坂上田村麻呂が立ちはだかる。威信を懸けた朝廷の逆襲がはじまった。信に足る武人・田村麻呂の出現で、阿弖流為は、民のため命を捨てる覚悟を決めた。北の大地に将たちが1人、また1人と果てていく。蝦夷の心を守り戦い抜いた古代の英雄を、圧倒的迫力で描く歴史巨編。古代東北の英雄の生涯を空前のスケールで描く、吉川英治文学賞受賞の傑作。
※※桓武王朝期、統一国家への道を急ぐ天皇は、蝦夷征伐の勅を坂上田村麻呂に下した。部族の独立を守るために迎え撃つのは陸奥国の盟主・阿弖流為。知勇を尽くした長い戦いが始まったが、田村麻呂の慈悲深い同化政策の前に、戦いはしだいにその様相を変えてゆく…。歴史の闇に葬られた民に光をあてた長編小説。
※※※ 明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は、降伏後北の辺地に移封(斗南藩)され、藩士は寒さと餓えの生活を強いられ…明治33年の北清事変で、その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎(後に陸軍大将、軍事参事官)は会津藩士の子であり、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、(死の三年前)、惨苦の少年時代の思い出を(口述して)残したもの。


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)から頂戴したお言葉を転載する(2021年3月13日記)。

高橋克彦の著書を始め、先生がここに挙げておられるどの本もまだ読んだことがありません。長らく宿題になっています。小説をとおしてではあれ知識も必要ではありますね。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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