先ずは高い見識を!

世はまさにゴールデン・ウィーク真っ只中。しかしこちらは年中連休みたいなものだから、ふだんとまったく変わりの無い生活が続いている。昨日も午後遅く夜の森公園を散歩してきた。しかし悲しいことに、このところ足の運びがかなり重くなってきた。運動不足のせいばかりでなく、急激に足に衰えが来たのではないだろうか。こうやって老化が進んでいくのだ、と考えると悲しくなるが、しかし今のところ他に具合の悪いところがあるわけではない。糖尿病の方は毎日クスリを飲んでいるせいかずっと数値は安定している。でもこの急激な足の衰えはさすがにショックである。考えると、死んだ我が家のばっぱさん、九十を過ぎるまで早朝の公園までの散歩、そしてそこで仲間たちとのラジオ体操を欠かさなかったのは偉いもんだ。九十九歳まで生きるには、私もこれから本気でからだ作り、じゃないか、体力の維持、を心がけなければなるまい。
 ところでそのばっぱさんのことだが、数日前からやっと『虹の橋 補遺集』を作り始めた。つまり『虹の橋』に収められなかった短歌やら雑文の入力作業を始めたのである。そのうちの一篇を最後に紹介するつもりだが、その前にぜひ書きとめておきたいことがあった。というのは一昨日のスペインの新聞に報じられていた一つの記事のことである。それによると現在オバマ大統領は中南米諸国を歴訪しているようで、同じくロシア、トルコなどを歴訪している我国の首相と実に対照的な姿勢が気になっているのだ。
 以前も確かドイツとフランスの積年の対立関係を打開するためにドイツを訪れたドゴール大統領が、ドイツの若者たちに呼びかけた演説に言及したが(「理屈じゃなく意志」、二〇一二年十月八日)、今回のオバマ大統領の演説もメキシコの青年たちの胸を強く揺さぶったようだ。この隣国同士もこれまで数多の問題を抱えてきた。米墨戦争(1846年、アメリカのテキサス併合後、国境紛争から開戦、圧勝したアメリカはカリフォルニア、ニューメキシコを得た)以後は、久しく戦火を交えなかったとはいえ、決して良好な関係にあったわけではない。むしろベネズエラの故チャベス大統領は別格として、中南米諸国中つねにもっとも反米感情が強い国であったろう。
 考えてみればハリウッド映画で長い間コケにされてきたのはインディアンに次いでメキシコ人ではなかったか。インディアンの扱い方が大きく変化しだしたのは、私の観た限りではぐ「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年。監督・主演・製作はケビン・コスナー。第63回アカデミー賞 作品賞ならびに第48回ゴールデングローブ賞 作品賞受賞作品)あたりからだと思うが、メキシコ人は、というよりメキシコは、無法者や食いっぱぐれが逃げ込むところと相場がきまっていた。オバマ大統領の演説もそのことに触れている。つまりメキシコを暴力と不法入国者の国と見做すアメリカ、そして反対に、アメリカを自分たちに侮蔑の目を向けてきた国、というステレオタイプの見方から共に脱却しよう、と訴えたのである。

 「多くのメキシコ人が蒙っている暴力の根は [アメリカ側の] 不法なドラッグの需要のせいであると理解しています。もちろんドラッグを合法化することが解決につながるのではなく、むしろその反対に、単に法の遵守だけでなく、教育や予防措置を含めた包括的な視点の見直しが必要だと思います。共にそれを目指そうではありませんか。なぜなら子供たちの生活や互いの国の未来はまさにそれに負っているからです。」

 オクタビオ・パスやフリーダ・カーロなどすぐれたメキシコの作家や画家にも触れ、ときおりスペイン語も交えた大統領の演説は何度も熱狂的な賛同の声に中断を余儀なくされたそうだ。政治家同士の駆け引きや本心を隠した外交辞令に終始するより、次代を背負う相手国の若者たちに訴えかけることがどれだけ両国の関係改善に益するか、誰の眼にも明らかであろう。ま、今の安倍政権にそんなことを期待するのは、それこそ無いものねだりだろうが。
 その安倍首相、トルコで原発輸出契約に調印したそうな。自国においてさえ原発の新設など世論の反撥を恐れて言い出せない(でしょうか?)のに、他国にはこうして堂々と輸出するというこの恐るべき倫理観の欠如を、私の知る限り新聞各紙はただ淡々と報道するだけ。もう何をか言わんや、である。そのトルコといえばつい最近(1999年8月17日)、マグニチュード7.8の地震が、死者約1万6000人、被災建物約24万4000棟など、甚大な被害があった国である。北部には全長1000キロメートルにおよぶ北アナトリア断層が走っており、この断層沿いでは過去にマグニチュード7級の地震が多発しているという。他の国のことなど構っておられぬ、ということですかな。あな恐ろし!
 さてお待たせしました。ばっぱさんの雑文を紹介します。1995年、ばっぱさん82歳のときのものです(「であい」、第21号に発表)。いくつか文意が通らない(なんて他人のことは言えないが)ところがありますが、少なくとも現在の政治家諸君よりその見識、批判的精神において勝ってます。それでは、どなた様もどうぞ楽しい連休をお過ごし下さい。

 
大江健三郎さんの受賞と記念講演の “テーマ” について思う   

      佐々木 千代

美しい日本とは

 一九九四年のノーベル文学賞受賞の報道を知って、当然のことながら誰もが驚き、というよりさわやかな喜びと感動を覚えられたことでしょう。私は大江さんの作品は何一つ読んでいないのに、不思議なほど親しさと尊敬の気持ちで、報道記事に目を通しました。何よりも光さんを抱くようにして奥さまと共に、あこがれのスエーデンに旅立たれたお姿は、ニルスの迎えを受けて二つ目の予言が成就されたような錯覚さえ感じられました。ご本人もそのように申されていました。
 しかしやはり私の心を捉えたのは、記念講演のタイトルにあったと思います。今から二十六年前の川端さんの受賞講演のタイトルは “美しい日本の私” でしたが、わが国はじめてのノーベル文学賞であっただけに、敗戦で自信をなくしていた頃の国民にとっては、大いにはげましともなり、その内容についてはそれぞれ拡大解釈していたかも知れません。しかしすぐれた文学者の眼と心で捉えた日本の美しさは、王朝時代の古典文学の心と感性の表現を、即ち日本語の持つ表現のユニークさを指していたと思われますが、西欧の人々にとっては日本人の持つ伝統的美意識と自然観には、理解出来ない難解さがあったのではないか、所謂そのあたりが「あいまいな」部分で、“東洋的な範囲まで拡がりをもたせたけれども、独自の神秘性(禅の世界)を指していたと思うし、現在に生きる私にとって同じように声を合わせて「美しい日本の私」ということはできません”と大江さんはきっぱり言い切っています。しかし当時川端さんの作品は映画に演劇に大衆化され、“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった”の書き出しは、随分と人々の文学意識をもりあげてくれましたが、今から考えると国民のひとりよがりだったかも知れません。


あいまいな日本とは

 さて私の心を捉えた「あいまいな」ということばは、日本語の持つ自在さを使って、現代日本のあらゆる社会事象の裏と表を的確に表現し、“美しい日本の”に対して“あいまいな日本の”とされた大江さんの知恵と表現の巧みさに敬服いたしました。しかし皮肉なことに「あいまいな」というより以外に適切な表現法がなかった大江さんの心情と、このことばによって表現されなければならない私達の国日本の現在であるということ、このことばに内在する拡がりは大きく深いものがあることを、冷静に国民的に考えて見る必要があると思うのです。
 半世紀かけて廃墟の中から追いつき追い越せのスローガンのもと、アメリカに学ぶ科学技術を駆使して築き上げた経済大国は、今その功罪の表面化によって、まさに対処しにくい危機の時代(聖書テモテ第二、3章)に突入した感を深くするものです。そして日本独自の持つあいまいさの因って来たるところの過程として、大江さんは、「二極に裂かれた」という表現を用いましたが、私はここで思い出されることは終戦直後新聞論説で成る程と思ったことですが、日本民族の特質とも云えることは、東西文化を貪欲に流入してまるで試験管の中で攪拌するかのように、やがて混然とした独自なものにしてしまう器用さがあるということです。したがって大事な価値判断を迫られる時、無節操、あいまい、中途半端、不透明、玉虫色などの不評を買う結果も当然で、西欧に見るイエス、ノーのはっきりした気質とは相容れないものがあります。
 現在私達の身辺には言葉・文字に始まって、生活用具から家の建て方まで和洋折衷などは古い言葉となってしまい、そうすることが当たり前で、明治の頃和魂洋才などの言葉もありましたが既に死語となり、今や地球規模で物事を判断しなければならない状勢となりました。
 そこでもう一度、「あいまいな」という言葉のもつ内容と、なぜ「あいまい」なのかということを、国家的社会的現実の面で考えてみたいと思います。新聞の投書欄にも「あいまいさを返上して核廃絶を宣言せよ」などと国民的見地に立つご意見なども見られますが、唯一被爆国として当然の主張であり、戦後五十年の節目を迎えて国の内外に於いて決断を示さなければならない問題は山積しているのに、国として政府として責任ある解答を避けたり棄権したり、国民の前に実にあいまいな態度しか取れないのはなぜか、近隣諸国に対する公的謝罪と新憲法の法的不一致は国民の威信に関わる重要問題であると思います。威信というより将来生死に関わる問題に発展する危険性をはらんでいると思うのです。共産主義による統制経済は崩壊し今や資本主義による自由経済も転換修正を迫られています。そして唯物論的無神論にかくされた非人間的モラルの恐ろしさと民主的自由によるモラルの頽廃はその極に達し、先進国途上国を問わず、今世界を風靡し、隅々まで行き渡っていると言っていいでしょう。


日本の今ある立場と歴史的自然的環境

 日本の文化と国民性にみる「あいまいさ」の因って来る原因は、遠因でもある歴史的背景と自然的位置環境による安全性と気候風土の独自性にあると思います。先ず島国であることとアジアの東辺に位置し、大陸文化の流れ淀む国として、儒教、仏教を受け入れ且つ学び、大陸との交流はあっても鎖国政策により独自の文化を育て、やがて開国を迫られ明治になって急速に近代化を目指して西欧への接近、さらに日清日露の戦いに勝ち、満州事変の侵略にはじまって大東亜共栄圏の旗印を立て近隣諸国への拡大侵攻により、国力消耗の末遂に原爆投下を受けて無条件降伏ということで、曾ての加害者は人類初の被爆国となり、戦後五十年経っても未だ被爆者援護法も成立しないまま、世界情勢の変化に巻き込まれ、頻発する民族紛争の支援から難民救済まで非戦国を表明しながら国連との兼ね合いで理事国入りもその去就に迷い、経済力は有っても外交面では主体性に乏しく、この秋開かれる東アジア太平洋経済協力会議の議長国として果たしてアメリカとのバランスをうまくとれるかどうか、国内事情が先ず不安定なのが何より弱味です。残念乍ら試験管の一時的攪拌は時間の経過により異質な物は澱として底に残ることは、東西文化の融合の難しさを思わせるものがあります。
 経済活動に於いても利害関係に労使のバランスが逆転すると破綻を来たし、国家間の対立を生み、やがて戦争に発展します。東洋的「和」と「中庸」の徳も現代的説得力に欠け、論理的思考型の西欧の人々には理解しにくい「あいまいさ」として印象づけ、我が国政界の現状を見るなら、民主主義とは程遠い離合集散の交替劇は信念を持たない力量不足の田舎役者を思わせます。これは我国ばかりではなく、世界的に見ても曾ての権力者は地に落ち、その支配力を失い、国民は寒さと餓えに生存の危険にさらされ、加えて自然災害も頻発し、地震・洪水・旱魃など政情の不安と共に人々の生活をおびやかします。宇宙に夢を持つ前に人類は地上の生活を円く治め、真の宇宙主権者のご意志に従う以外に道はないでしょう。

  
癒しと救いはどこから来るか

 四五日前東京の息子から送られて来た光さんのテープを聴いてみて大江さんのおっしゃる通り、、純粋で美しい音楽によってのみ人は心の傷も癒され、魂の深いところで慰められることを実感しました。謙遜に宗教を持たない者にとっては、と申されましたが、無垢であり上品であることは、普遍性を求めることで昇華して行くならば、それが宗教にもつながり民族や国境の壁を越えて、心からの友愛の絆に結ばれて、地上に於いても至福の生活が広がって行くことでしょう。唯一であり、真理である真の主権者は、決して地球も人間も滅ぼすために創造されたのではありませんでした。今こそ謙虚にそのご意志を深く考えて、「新しい生き方」を選ぶべきだと思います。甚だ私なりの推論に終わりましたが、マタイ二十四章に目を通して頂くことをお願いしてこの稿を終わります。

                    (一九九四年十二月十八日記)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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先ずは高い見識を! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     実生活の中で、私たちは物事を抽象化し数値化し記号化して論理的に一括りに分けて割り切って考えることが多いように思います。しかし、物事の核心は割り切れないもの、非合理的な形で成り立っているのかも知れません。それをお母様は「あいまいということばに内在する拡がりは大きく深いものがある」と思われたんだと私は思います。論理的に考えることは、ある意味、合理的に利己を中心に物事を判断していくことのように思います。お母様が最後に「新しい生き方」と言われた意味を考えると、一人ひとりの情操を養って利他的、大我的に生きることで、実生活の中で物事の核心を見極める見識が生まれるのかも知れません。文章を読んでいてお母様の教養と見識の高さを改めて感じました。ヒルティも『幸福論』の中でこんなことを言ってます。

     「人間に対する愛の増大は、人の眼力を鋭くし、そういう愛を高度に所有する人に、他人の最も深い心の底を見抜く能力を与え、これがすすむと往々、ほとんど奇蹟に近いところまで行くことがある。ところが、利己主義者は人を次第に愚鈍にするものだ。このことを知れば、かずかずの大きな人生の謎を解くことができる」。

     

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