アイカツ?

一昨日三十一日は幼稚園でハロウィン・パーティーがあったそうで、愛は魔法使いの頭巾のような三角帽と黒いマント姿で意気揚々と帰ってきた。昨年もあったのかどうか忘れてしまったが、ともかく最近始まった行事であることは間違いない。東京のどこかでは町全体の行事として定着したそうだ。へえーハロウィンがねえー。
 もともとこれは秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す古代ケルト人の祭りにキリスト教の諸聖人の祝日が重なってできた、主に英国やアイルランドの風習だった。つまりハロウィンとは 万聖節(キリスト教で毎年11月1日にあらゆる聖人を記念する祝日)の前夜祭、Hallow (神聖な)+een(even=evening) という意味だそうだ。これがアメリカではカボチャをくりぬいて目鼻口を開け、中にローソクを灯すなど奇妙な風習となった。
 その起源や形態はともかく、このような外国生れの祭りや風習が幼稚園の行事にまでなってきたことに、ちょっと複雑な思いがしないでもない。そんなことを言えばバレンタインだって、もともとはローマ時代のキリスト教殉教者ヴァレンティヌスの祝日(2月14日) が異教の祭りと結びついたものだそうで、今ではクリスマス並みに世界中に広まっている。
 何も私はここでお笑いコンビ・クールポコ(あれっいつの間にか消えたか?)に倣って「男は黙って七五三」などと言うつもりはない。子供たちの楽しみが増え、若い男女の仲が良くなることに水を差すつもりもない。でも何かおかしいなー、との思いを拭い去ることができない。たぶんそれは、それら外国発祥の行事がすべてコマーシャルに先導され扇動されていることに不快感を覚えるからかも知れない。
 もうひとつ孫娘・愛の例を出すと、最近彼女しきりに「アイカツ」にハマッテいる。初めその新語の意味が分からず、たぶんコンカツ(結婚活動)やシュウカツ(就職活動)に倣った恋愛活動のことかな、と思った。だとするとレンカツのはず。日を置かずして分かったのは、それがアイドル活動だということ。小さなカード状のものを集めて、どうしたらアイドルになれるか、のゲーム(?)らしい。とうとう愛は「わたしトップアイドルになるの」なんて言い出した。
 話は変わるが、このごろちょうど夕食時に放送されるEテレビの「大天才てれびくん」なる子供番組も見る機会が多い。むかし教育テレビといえば実にお堅い番組がふつうだったが、いつごろかEテレビ(失礼!Eテレと言うらしい)が柔らかくなってきた、と言われ始めた。早朝だが「こころの時代」などという実に優れた番組もあるにはあるが、どうも総体的にはぐにゃぐにゃと柔らかすぎるものが増殖しているようだ。
 別に目くじら立てるようなことではないかも知れないが、どうも気になってしょうがない。子供たちの嗜好や興味を顧慮しないやたら道徳的な番組作りも反対だが、かと言って、今時の子供たちの人気取りに走った下らぬ番組も願い下げだ。つまり子供たちの好みの後追いだけならまだしも、現今の番組作りは子供たちの好みを先取りして阿(おもね)ているとしか思えない番組が多いのだ。
 このあいだもその番組内で、異性のどんな仕種(しぐさ)に「胸キュン」になるか男女中学生の大討論会が放映されていた。そんなことは意識してやるもんじゃなく、ふと表れてこそ胸に響くことなのに。先日も司馬遼太郎さんと井上ひさしさんの対談の中の宮崎駿さんのエピソードを紹介したが、若い女の子の声が「ほとんど娼婦の声」になってきたとの歎きはいよいよ深刻である。
 さてわが愛する孫娘に、おじいちゃんはなんと言うべきか。頭ごなしにアイカツ禁止令を出しても逆効果だろう。世の心ある親御さんたちの大きな悩みは、軽佻浮薄な世間の波からどのようにして子供たち守るか、ということ。以前、ここでも歎いたことだが、わが南相馬の学校帰りの小学生など田舎の子供らしく実に素朴で可愛らしいのが、中学生、高校生になるに従って、都会並みの薄汚れた生徒たち(すみません口が悪くて、都会の生徒がみなそうだというのではありませんぞなもし)になっていくのが悔しくてならない。
 そう考えると太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」(松本隆作詞・筒美京平作曲)がやたら哀切に響いて来る。

  1. 恋人よ ぼくは旅立つ 東へと向かう 列車で
    はなやいだ街で 君への贈りもの 探す 探すつもりだ
    いいえ あなた 私は 欲しいものは ないのよ
    ただ都会の絵の具に 染まらないで 帰って
    染まらないで 帰って
  2. (省略)
  3. (省略)
  4. 恋人よ 君を忘れて 変わってく ぼくを許して
    毎日愉快に 過ごす街角 ぼくは ぼくは帰れない
    あなた 最後のわがまま 贈りものをねだるわ
    ねえ 涙拭く木綿(モメン)の ハンカチーフください
    ハンカチーフください

 いつの世にもあった悩みではあろうが、テレビだけではなくスマホとかiPhoneとか(私には未だ区別がつかないが)世の中全体がそうした軽佻浮薄な電波にびっしり埋め尽くされている現況で、「自分の目で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる」人間にどう育てるか、大きな難問である。
 妙案は無いかも知れないが、わが貞房さんのように、絶えずつぶやくこと(そうこれぞ真のツイッター)、いつかそれが遠くは公共放送のプロデューサーやディレクターの耳に、そして近くはわが孫娘の耳にこびりつき、思わぬときに思わぬところでその効果を発揮することを信じて。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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アイカツ? への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     人間が生きるということは非合理的なものだと私は感じます。先生がモノディアロゴスの中で再三言われているように学校は生徒のテストの成績で論理的に生徒を区分けして、その数字だけを生徒の価値だと判断してしまっている。正に義務教育の後は高校、大学と、その数字だけで人間の線引きが始まるわけです。しかし、頭が良いという基準は記憶力だけではないんじゃないでしょうか。私個人としては、利他的発想のできる人が本当に頭が良い人だという考えを持っています。人間社会というのは大きなバランスを保って成り立っているわけで、自分だけ良ければという発想が社会全体の閉塞感に繋がり、さらに地球環境が破壊され、近年の異常気象という現象が顕著に現れているように思います。人間の生き方自体が全て損得で合理的に割り切ってしまった結果、環境を含めた社会全体のバランス(調和)が崩れてしまっているのが現代社会なんでしょう。日本で最近マスコミなどで問題視されている孤独死なども本来家族はお互いに労わり合って生きるものなのに、個人の合理的に割り切った、先生の言葉を借りれば、「うっとうしいもの」を避けた生き方の結果に原因があるように思います。

     先生が繰り返し言われている「自分の目で見、自分の頭で考え、自分の心で感じる」人間にどう育てるかは、言われるように正に大きな難問ですが、しかし、その答えはモノディアロゴスの中にに明記されていると私は感じます。
     

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