お約束どおり、ばっぱさんの手記、第二弾として、1982年、同じく「であい」第8号に寄稿したものを紹介します。実は今日、スペインと日本にまたがったある壮大なプロジェクトのニュースが舞い込んだのですが、それはまだ公表する段階ではないので、時期が来たらということにします(と、いかにも思わせぶりな言い方だが、掛け値なしのビッグニュースとだけ保証しておきます)。
ともあれ、ばっぱさんの思い出の記、わが親ながら個性的に生き切った人生、と感銘深く感じています。
生い立ちの記録 その一 【秋風によせて】
朝夕の風に湿気がなくなり、庭の梧桐の葉がさわさわと鳴り出すと、ふと、古今集の歌が思い出され、なんとなく人恋しくなってきます。いつもこの季節になると、ほんとうの自分にもどっていくような気になってくるのは、ふしぎなことだと思います。
生年月日が明治最後の日であり、大正期の育った私には、小学校の頃よく歌った童謡の数々にひとしお愛着があります。それらは夕暮れ日暮れを歌ったものが多く、当時それなりのこころと耳で対応し、ロマンと情操に満ちた環境に充分浸って育つことが出来たことに、何か誇りめいたものを感ずるようになりました。
しかし、私が育った母方の家はもう無く、お墓参りに行っても、その屋敷跡を遠くから眺めるだけであります。昭和の初め、私達の親達の北海道移住により、家は解体され、ひと手に渡ってしまったのです。弟達が東京の大学に入ってから、その往復途中、残された柿の木にのぼって、名残を惜しんだというはなしは、村の人から聞いたことでした。
私がこの歳になっても、夢に見る家は、やはりその家であり、何年たってもそのままであります。大きな三階建ての家で、養蚕室が大部分であり、背戸に面した廊下の階段下に、父の本箱が無造作に置かれてありました。
父は、代用教員をやりながら、若い時分から文学書に親しみ、生涯文学を愛しながらも、婿養子となって、不本意な生活に終った人でありました。私が小学校五年生の頃に、徳富蘆花の『自然と人生』、『思い出の記』などを手に取ったのも、またやや成長してから、古今集や新古今集、百人一首などの和綴じの本の中から、「秋来ぬと…」の歌や「逢見ての…」の歌など、古人の季節感覚の鋭さや、ほのぼのとした恋愛心理を内容とした歌など、早くから味わうことができたのも、父からの間接的な影響があったと思っています。
『思い出の記』の中の主人公が、馬で送られてきた峠で、振り返って別れを惜しむ情景や、従妹をめぐっての愛の痛みなど、私が後で魯迅の作品にも同じく故郷を去る愛惜の情のしみじみとしたものを読み取り、魯迅その人に強く惹かれたことは、蘆花がトルストイを最も尊敬し、わざわざヤスアナ・ポリヤナを訪れたということと重ね合わせて故郷を失った同じ体験から、トルストイの『幼年時代』にも、その原型のあることを知り、学生時代には一層彼の作品にひかれていきました。父が弟二人に、誠一郎(猪一郎)、健次郎の名を付けたことも、うなずかれます。
その弟誠一郎はちょうど五十歳で亡くなってしまいましたが、書き残した膨大な原稿は甥がしまってある筈で、その内容は何を書いたのか想像もつきません。もう十年以上も経っていますが、今でも臨終の枕元にかけつけた時のことを思い出すたび胸が痛み涙がこみあげて来ます。啄木を思わせる風貌と印象を持たせる人柄でありました。
昨夏亡くなった従弟島尾敏雄も「一郎ちゃん、健ちゃん」の愛称で親しんでくれたものでした。小学校に入る前だったか、秋の大水の出たあと、屋敷の裏を流れている小川に、ビール箱を浮かべて、キャッキャッと声を上げながら、弟達が従弟と乗り合って遊んでいた情景が、映画の一コマを見るように目に浮かんできます。
さて、はなしはまた前後しますが、以前島尾敏雄の出した『東北昔ばなし』の語り主であった祖母の人となりについて、少し書いてみたいと思います。
その祖母は、自分の名前しかかけない人であったのに、記憶力の良さは驚くばかりで、いとこ達と冬になるとこたつの中で、昔ばなしをきかせて貰ったことなど、鮮やかにおぼえています。けれどその一つ一つについては大部分忘れてしまいました。その数は今数えても百話に近いほどで、伊勢物語や今昔物語あたりに起因しているものも相当あったようでした。ばけ狐のはなしや、安達ヶ原の鬼婆のはなし、そしてみなみ山のばか婿のはなしなどは、何度も繰り返しねだって聞いたものでした。何べん繰り返しても同じ調子で、安定した話し振りなのには驚くほかありませんでした。今なら、テープレコーダーで繰り返し聞くこともできますが、祖母の口うつしのはなしには、一種独特の味わいがありました。
いとこ達の中では従兄二人をのぞいて私がいちばん年長であったので、伊勢参りに父親と出かけた一人娘が途中で若者に出遭った話とか、お姫さまと下男が恋し合って、庭木の枝に結んだうたのやり取りで、かろうじて通じ合ったことなど、わがことのような気持ちで聞いたことは、早熟で内向的だった自分の少女時代がしのばれるのです。
父には男四人兄弟の末に妹一人あり、その妹(私にとっては叔母)は祖父から特に可愛がられ、その執心は大したもので、毎朝の髪結いは私の母(いわゆる嫁)の受け持ちであったが、祖父はいつも側に付きっ切りだったというから推して知るべきでしょう。
その叔母は、いとこ同士ということで望んだ間を反対され、不本意な結婚に踏み切ったことは、気の毒なことでした。文学好きの叔母が、師範学校在学中に、久米正雄と交流があり、中央の俳壇にも進出していたT氏を、生涯忘れ得なかったことは、私が双方の家庭にそれぞれ一年余りお世話になったので、よく理解できたのです。叔母は、生家の姓で時おり新聞の投書欄に随筆風のものを出したりしましたが、叔父は全くの商人かたぎであったせいもあり、趣味もまるっきり違っていました。いとこが小説家になったのも、おそらくその叔母の素質を受け継いだもののようであります。
私が、一年余りお世話になった神戸西灘時代の彼は、まだ小学校三年生でありましたが、当時のイメージと現在の彼の人間像とは少しも変わっていないのです。「傷んだ葦も折らず、煙る灯心も消さない」の心情的やさしさは、既にその頃にして養われていたと思います。
『われ深き淵より』『死の棘』などの一連の作品の中に、一貫して流れているものは、彼の少年時代からの殉教的精神であり、一口にいって、“癒しの文学”ともいえると思うのです。
余談はさておいて、もう一度私の少女時代にもどると、叔母家族は夏になるときまって、実家の奥座敷を一ヶ月余り占領し、田舎では珍らしい都会風な雰囲気をいっぱいにしていましだ。叔母は、おしゃれな人でとりわけ束髪姿の美しいひとでしだ。私を特別可愛かっていましたが、ほかのいとこ達とも差をつけない心配りはあったようで、珍らしいみやげ物も公平に分配していました。
今でも思い出してうれしいのは、巾の広いリボンの数々、素的な筆入れとか、お下げ止め、桐の丸い形をした赤い緒の下駄など、それらは目立って高価なものというより、センスのよいハイカラな趣味にあふれたものばかりでありました。
そして、夜になるとかならずうたを歌わせられたもので、当時学校で習った童謡をうたうと、叔母は「田舎の学校でも、そんな素的な唱歌を教えるのねえ!」といって喜んでくれました。
「赤い靴・青い目の人形・浜千鳥・カナリヤ・砂山・叱られて・月の砂漠」など今うたってもなつかしいものばかりです。
叔母は、ほんとうに歌が好きで、私が女子師範時代の夏休みを神戸ですごした頃、家族で夕涼みにでかけ、星空を仰ぎながら港の見える公園の芝生で、叔母の歌った「夜の調べ」とか「浜辺の歌」「オーソレミヨ」など美しいソプラノの声をふるわせたことなど、今でも耳に残っています。とりわけ関屋敏子 [ミラノ・スカラ座などで活躍したが若くして自死] のうたが好きで、自分も敏子だからと言ったことなど覚えています。
私が小学校に入る前、祖父母に連れられて横浜の太田町の家に行ったことも印象深い。ある時女中さんが玄関の掃除をしてから靴をみがいていましたが、からかい半分に何か知っている歌をうたってごらんと私に言ったにちがいありません。私が得意になってうたったのが、ナッチョラン節 [第一次大戦中、青島守備の水兵たちが歌って流行った唄] だったのです。その時文句の中に「尾のない狐がいるそうだー」とあるその狐は、尾の長いほんものの狐を思い浮べてうたったことは、はっきり覚えています。それから当時流行していた「金色夜叉」は「熱海の海岸のうた」として諳んじてうたったものでした。わたしがその時、貿易商の叔父に嫁いで贅沢な生活をしていた叔母をなぜかいつもお宮に想定していたのは、おもしろい気がします。
後年、三十八才の若さで、四人の子どもを置いて京都の病院で亡くなったその叔母の短い一生を考えますと、私は限りない悲しさにおそわれてくるのです。私の結婚も叔母が亡くなる一年前ひょっこり帰って来られ一ヶ月位滞在中、T氏と仲人役をしてくれたようなものでした。亡くなった報せを持って来たのもT氏であり、その夜主人をかこみ、それぞれしんみりとしに気持で、身重だった私ができるだけ、平静を心がけていたことも記憶に残っています。
このごろは、こどもの頃の思い出にふけることが一層好きになり、また、秋風の立つ頃になると、人が恋いしくなり、四十年前、熱河の山野に馬を走らせた亡き夫の馬上姿が、すすきの穂を背景に、なつかしくよみがえってくるのです。