思い出の中の中国大陸

このところ連日、『左膳、参上! モノディアロゴス第Ⅹ巻』の印刷・製本・発送に明け暮れていた、とはちと大げさだが、実際にその間、他のことをやる気が起きなかったことも事実である。それもようやく一段落。その間、世の中は相も変わらずしょんないことの連続。時おり作業の合間に、と言うより作業の最中、これについては一言いわねばなるまい、などと考えたことも数件あるが、しかし落ち着いて考えてみるまでもなく、それらはすべてしょんないことばかり。敢えて言及するまでもない、と改めて思う。
 たとえば、とまたまたしょんないことに付き合うわけだが、今朝方の新聞には、雨の中、AKB48の総選挙だかに7万人の若者たちが集まったなどと報じている。以前どこかでアッカンベー48なんてオヤジ・ギャグをかました時も言ったが、腹が立ち情けないのは、子供(若者?)だけでなくいい大人までがこうした企画を立てたり、それに関わっていることだ。要するにI・S・L・C(だったかな?)になっている。つまり一億総ロリータ・コンプレックスに罹っているということだ。
 今時のスター(いないか)の名を出すと何かと差しさわりがある(かも知れない)ので、往年の、しかも海外の例を出すと、マリリン・モンローのような成熟した(?)女性に対する欲望(?)でもなく、さりとてシャーリー・テンプルちゃん(古っ!)に対する無垢(でもないか)の憧れでもなく、そこらじゅうどこにでもいるような可愛い子ちゃんへのいじましい(失礼!)までの熱狂。
 7万人というとその年齢層の何パーセントなんだろう、と考えると暗澹たる気持ちになってしまう。もう一度言う、思春期前後の若者たちがタレントに熱を上げるのはいとも自然なことである。問題はそれらタレント・ユニットを企画し宣伝し商売にする大人たちの魂胆である。つまりかつてはそうした児戯めいたものに苦い顔をする大人たちがいて、子供たちはそれを煙たがりながら、でも惹かれ行く心をどうしようもなかったのだが、今ではテレビ、新聞までがその「苦い顔」をまったく見せずに、いやむしろ率先して、若者におもねて、報道したり持ち上げたりしていることに、正直○○が出る(汚い言葉なので伏字にする)。
 ときどーき見るテレビでは、毒舌・辛口のしょんないタレントに人気が出ているとか(おや、知ってるでねーの)。でも彼らの毒舌・辛口は正面切って反論してくる勇気もない小者を狙っての毒舌であって……あゝバカらしいのでここらで止めよう。
 そんなことより、いまばっぱさんの『虹の橋』の拾遺集を編んでいるところなので、それこそ小者あいての毒舌より、そのうちのいくつかをご紹介した方が世のためになる(?)と思う。実は昨日、たしか100ページ近くまで集めたデータがあったはずと、すでに動かなくなった古いディスク・パソコンを引っ張り出し、長時間かけてなんとか作動させることに成功。このあいだ印刷機が壊れて、ウンともスンとも言わなくなったときも、騙しだまし諦めずに粘りに粘ってとうとう作動させることに成功したが、今回もそれこそ起死回生の快挙を成し遂げたわけだ。
 いや、パソコンの仕組みに詳しい人なら難なくやってのけられることを、こちらは徒手空拳もいいところ、成功はしたが同じことを二度やれと言われてもそれは無理。喩えて言えば高い崖を何とか攀じ登ったはいいが、下には下りられない、に似ている。「精神一到何事か成らざらん」 いや不思議なもので、時に無機質の器械に対してもこの一心が通じるんですなあ。
 そういえば先日、メールで私を罵倒した若者が言ってました、「あんたって意外と古くさいんだな」 何をおっしゃるウサギさん、私ゃ根っから古いやつなんでごぜえやす。
 さて、ばっぱさんの文章をこれから時々、もしかして連続して、いくつか紹介するつもりだが、今日はそのうちの一つを。『出会い』という社団法人 福島県文化センター企画課発行の同人誌掲載のものである。じっくり読んでやってください。



思い出の中の中国大陸 “日本人は出直さなければ”いけない”

 
 今から三十七年前……。あれは昭和十九年の秋でした。
 大東亜戦争の戦雲もそろそろ険しくなった頃、私達はふとした機会に国境近い古北口の秋祭りに、県公署の職員一行と招待を受けて、遠足を楽しむような気分で、一日を過ごしたことがありました。
 山の上にしつらえた(敢えてこう申します)神社の境内には、すでにすすき穂が風になびいていましたが、いかにも南満州らしい美しい秋日和でした。
 総勢二十人に満たない在満小学校の子供達を連れた私は、戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いている校長先生と二人だけの教師として参加したのでした。その中には、私の子供三人も入っているのです。
 十八年に十二月に主人は現地で亡くなっていますので、ちょうど、一年目を迎える頃でした。
 古北口は、北京に通じる鉄道沿線の小さな町で、日本軍の駐屯部隊のあったところです。
 今、アルバムの中に残っている一枚の写真だけが当時の面影を語ってくれる唯一のよすがとなりましたが、はるかに万里の長城が後方に写っています。女子職員は皆(私も)キリリとしたモンペ姿です。男の人達の帽子には、兵隊さん並みに、うしろにヒラヒラがついています。
 私は、今になってどうしてあの日のことを、はっきり思い返しているのでしょうか。
 たしかあの時、私には、ひそかに思いめぐらしていた、一つの考えがあったのです。
 一行の中には、当時満人と称していた中国人官吏の上役がひとりいましたので、特に印象深く、その人の表情まで思い浮かべることができるのです。大様でゆったりした面持ちには、いかにも中国の大人(たいじん)といった風格が感じられました。
 それより三年前の十七年十一月に、主人が宣撫工作のため田舎へ出張中に、私は北京廻りで、内蒙古の張家口から、張北というところに、子供を連れて出かけたことがありました。私が一ヶ月ばかり奉天の病院に入院中、弟夫婦のところにあずけていた六歳になる女の子を迎えに行ったのでしたが、満州国・北支・蒙古と三カ国の貨幣を使い分けながら、よくも女一人で旅行ができたものだと思われるほどです。
 今考えてみても、大変なことだったと思われますが、その頃、日本人はまだ身分が保障され、婦女子でも安全に罷り通っていた時代であったわけです。
 さて私が思い巡らしていた考えというのは、甚だ素朴なものですが、とにかく、興安嶺の畳々たる山なみを眺めた時、そして地平線の見えないような広漠たる蒙古の大平原の真っ只中に立った時、このまま西へ西へと行けば、ヨーロッパ大陸を越えて、更に大西洋に出られるのだという実感は、コロンブスが海を渡って行けば、インド洋に出られるのだという自信と同じ気持ちに通ずるものがありました。同時にまた「中華」という思想の根源に突き当たったような気持ちにもなりました。大東亜共栄という旗じるしのもとに、力の政策で大陸に侵略していたことについて、第一線に立ってじかに為政する立場の一人として、主人は良心的に考えるところがあったのでしょう。生前、省公署の方との意見交換の席で、強い口調で「日本人は全部出直して来てほしい。出直さなければならない」と言った言葉が、はっきり私の心にささっていました。
 当時の北京駅では、ホームから待合室いっぱいに、ぐるぐる長蛇の列をつくって、一昼夜でも二昼夜でも列車に乗れるまで、待ちつくす農民大衆であふれており、それらの人々は、薄汚れた綿入れ一枚を着て、うすいふとんをくるくる巻いたものを持つだけの姿でしたが、時おり、繻子の帽子に裾の長い中国服をすらりと着流した、とても日本人の中には見られない、いわゆる大人(たいじん)風の人を見かけることがありました。そしてまた、美しいなと思ったのは、若いすんなりとした女性が、裾の開いた中国服をピッタリと着て、刺繍をした靴をはいて、音も無く歩く姿で、それはまた格別魅力的でした。(街頭ではあまり見られませんでしたが)
 私は、革命後に国際会議などの政府高官たちに付いてくる中年の女性の殺風景な人民服姿を見ると、何とも気の毒な気がしてならないのです。ただ、当時の女性に見られない知性のひらめきと、男性、女性お互いに人格の尊厳を認め合う、侵さずに侵されないという、気迫は感じられてうれしい気もいたします。
 さて、このたび、早稲田大学の藤堂先生のNHK大学講座「漢字文化の世界」と公開講演会がございましたが、余りに深く余りに広大な文化圏に関することなので、私ごとき卑小浅学の者には、その内容に触れることは遠慮させていただきまして、昨年「であい七号」に感想を述べさせてもらった「日本語の美しさ」につづいて、まったく方向違いかもわかりませんが、日本文学の美しさについて、私見の一端を述べてみたいと思うのです。
 私はこのごろ、特に日本人について、そしてまた日本文化について、具体的には音楽・絵画・文学など、その他それぞれの分野に於ける特色について、素人なりに考えてみることにしています。
 先ず一口に言って、間と空間、静寂と余韻、簡素と総合、点と線、無と空白、そして簡略化といった西欧のそれらにはない表現法が、日本人の美意識からつくられた、磨き上げられた美学となって、それぞれの面に現れて来ているような気がいたします。最近造形の面で、伝統工芸や建築にも顕著にみられるようになりました。
特に、文学に焦点をしぼってみるならば、膨大な漢字の象形、表意、指示文字を取り入れた私達の祖先が、万葉時代に既に大和うた(和歌)の表記に、複雑な漢字を楷書から行書、そして草書と、見事に万葉仮名として、表音文字に工夫されたことは、素晴らしい日本人の知恵として感嘆せざるを得ません。その流麗なるかな文字の書体も、活字文化の現代においてもなお、書道の世界に古典として受け継がれているだけでなく、まだまだ日常の書きことばの、たて書き、及びよこ書きには、世界にその類を見ない実用性を持っております。
 中国が今、急速に符号化、簡略化を進めている現状を見ると、往年の漢字文化創造の国としては、あわてて事を仕損じるの感を深くするものであります。
 一方、わが国に於いては、カタカナ、ひらがな、そして漢字、国字併用の便利さに加えて、数字及びローマ字を使っての外来語と国語と実にバラエテーに富んだ自由自在の表現法は、まさに日本文化の多様性と国際性を象徴しているものと思われます。混乱として歎くより、その寛大なる包含性は、むしろ民族性の長所ともいうべきものと思われます。先ずためらうことなく、異質の文化を、大胆に、貪欲に、柔軟な受け入れ方をして、やがて完全に消化しなじんだ頃、日本独自の工夫創造のレベルに高めて、遺憾なく、民族性、芸術性を発揮するふしぎな魅力を持っている思うのです。
 そのことについては、前にも触れたことですが、最近は一層その感を深くし、自信を強めている次第です。
 ただし楽観ばかりしておれないこととして、若い者の一部には、特に学生層にみられる、はなし言葉の粗雑さが目立ち、書く能力も低下していることは、前途に少々不安も感じられるのですが、常用漢字の増加とかが学術用語では自由な使用は認められるという点では、中国の場合とは逆行していることで、むしろ日本文化の将来に頼もしさを覚える者のひとりです。
 繰り返し私的見解になりますが、実用性をはなれたといっても、古典の中にこそ日本語と日本文学の美しさがあり、せめて短詩型(短歌)に於いては、旧かなづかいと文語体は、あくまで固守したいものと思います。そして漢字を使っても漢語はできるだけ避けたいものと思います。ここで再び短歌の美しさは漢語を避けた大和ことばの美しさにあると強調したいのです。
 生活文化の向上とは科学と機械文明の発達によって、生活の中に時間的余裕を拡大しつつある現在から将来に向かって、ますます文学としてのことばと文字は、実用性国際性と併行して古典の保存を強く望んでやまない次第です。
 日本語の難しさは、豊かさにも通じるものであり、かな文字の発明により外来語を自由に受け入れられた便利さを思うと、日本人をただ器用さに長けているだけと見るのは皮相的であり、もっとその精神というか、工夫力創造力に加えて、センスのよさを高く評価したいものだと思います。
 ことばは民族と共に生まれ発達したものであり、民族により保たれるものであるならば、将来に向かってより美しく、より豊かに、私達の遺産として残したいものと思います。文字もまた同様だと思います。
 神はむかし、人類のことばを散らし、民族の散在を命じたもうたというけれども、私達は今、人類創造の原点にもどって考えるべきことは、ことばについてだと思います。
 電波放送技術の発達した現在、その重要性も増しています。今やコンピューター時代に入りましたが、文字はことばを伝えるものであり、民族の文化を記録するものであるから、人類に置き換えても同じだと思います。
 漢字文化圏にのみ墨の芸術があるとすれば、更にかな文字併用の美学を完成させた日本の立場から、その実用性、国際性を含めて、言葉と文字はどのように整理されて行くのであろうか、果たして統一された共通語は必要となるであろうか。人類が共に生きて行くためには、日本語の果たす役割はどこまで国際社会に貢献できるであろうかということは、日本民族としてどのように生きるかということに、かかっているということになります。
 最近は、ふたたび文字の本家、文化の源流中国大陸に向かって、新しい目で私たちは関心を寄せています。
 シルクロードブームも、果たしてブームだけのものに終わるでしょうか、私ひとりだけの思い出の大陸ではなさそうであります。

「であい」、第8号、一九八二年所収

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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