昨日、午後5時半から「ゆめはっと」1階の多目的ホールで、「2014 全国青年のうたごえ交流会 in 福島」参加者60人ほどを前にして、「若い世代にこれからも語りついでいきたいこと」という与えられた題の下に、一時間ばかり話をしてきた。1コマ90分という時間感覚に慣れていたので、そんな短時間(?)に果たして言いたいことを過不足なく語れるか心配していたが、温かい会場の雰囲気に支えられて、いくつか言い残したことはあったが、ともあれ気持ち良く話すことが出来た。
今回の大会の幹事役「仙台合唱団 若星Z」との事前の打ち合わせどおり、話の最後に「原発難民行進曲」を電子ピアノの伴奏で歌うという「おまけ」までつけた。歌の途中から参加者全員の手拍子の応援もあったが、すでに予定時間が超過していたこともあり、さすがに最後まで歌う勇気はなく、2番で打ち切らせてもらった。でも日本各地の参加者を通じて、「麦と兵隊」の懐かしくも悲しいメロディーに乗って被災者の悲しさと願いが伝わっていけば、と希望している。
プログラムを見ると、今日は練習や発表の合間に、小高区などの見学ツアーなどもあって、原発事故への強い関心がうかがえてありがたいし嬉しい。仙台グループの一人にはこの原町区出身のお嬢さんもいるし、もともとはあの「歌声喫茶」の流れを汲む全国組織なので、これを機会に地元の若者たちにこのうたごえ運動に関心を持ってもらえたらと思う。
さてこのところ数回に分けてばっぱさんの遺文を紹介させてもらったが、今日は少し謎めいた文章をご披露する。実はこれは既に『虹の橋』に収録されていたが、その中に触れられている或る「事件」のことが気になりながら読み返すこともなかったものである。今回改めて読んでみて、実は「謎」はいよいよ深まった感もあるが、しかし「事件」の全貌を推測できるだけの手がかりはいくつか読み取れた。先ずは虚心に読んでいただき、私の「推理」は明日にでも書いてみようと思う。果たしてばっぱさんの「推定無罪」は成立するか(?)。ともかく先日の吾峰会との因縁もあり、ばっぱさんの青春の一齣を辿りなおす喜びも味わっている。
『であい』創刊号に寄稿せし亡友を偲ぶ
昨年五月、佐藤典雄さんにお願いして送っていただいた『であい』数冊の中に、はからずも亡き友Aさんの寄稿文を見つけました。
それは各人によるガリ版刷りの貴重な原稿集録の創刊号の中の一文でした。私にとっては本当に予想もしない、なつかしくもまた意義深い証言ともなる、友からの生涯かけての贈り物となったのです。
会津の坂下からわざわざ福島まで、汽車とタクシーを乗りついで、いそいそと出かけて来たAさんの面影が彷彿として浮んで来ました。会員紹介の《ひとこと》欄に、いかにも彼女らしく《厭がられる年令に達し、夢未だ捨てかねる女》とは、何と粋なひとことでしょうか。うれしくなって涙を流しながら読んでいきました。
~~前略~~
〈あれから何十年経ったことだろう。希望と抱負に胸おどらせて、入学したピンクの校舎、時代物のバルコニー、色褪せたりとはいえまだ堂々としたものだった。重々しい正面玄関には柱からはみ出る様な大きなボンボン時計があった。〉
~~中略~~
〈葵の花が咲いたなら、吾妻山の雪が消えたなら、なつかしの家へ帰られると祈りにも似た切なる思いで、あの秀麗な高嶺を幾たび仰ぎ見たことか、入舎して間もない十五の春のことでした。ゆたかな流れに心を委ね、そぞろ歩きしながら友と語った隈畔。植物採集の弁天山。一人静の可憐な花を初めて摘んだのもあの山であった。〉
~~中略~~
つづいて先生方の授業風景を、個性あふれるしぐさなど鋭く、またユーモアを交えた描写に、当時の先生方を中心とした青春の一コマ一コマが、昨日のことのように浮んで来ました。
しかし私にとって次の一文が、彼女を心の底から尊敬して止まない重要な証言文となったのです。
〈学理はさておき多彩な諸先生の感性は、生徒各自の人間形成に大きな役割を果たしたことは、誰しも首肯するであろう。その最たるものは、何といってもM校長の人格的存在である。
時代の風潮は急速に生徒の団結を固め、欝積していた不満欲求を請願抗議へと行動に表わして行ったのである。事なかれ主義の先生方の驚愕は想像を絶するものだったろう。
しかし英邁沈着な校長の決断によって、すべては善処されたのである。生徒の自治活動の礎石となった一大改革は、校内に新風を吹き込み、尚操会は目ざましく活動した。何と張りのある日々となったことか、この事によって最高学年の私たちは、責任感と自負心を確かめ合い、改めて校長の深い愛情を痛感したのである。〉
~~後略~~
昭和八年三月、私達は無事卒業免許をいただき、それぞれの任地に派遣され新しい教職員としての第一歩をふみ出したのであるが、問題はその年の半ばに思いがけない不幸な事が起きたのです。あとから聞いたことですが、当時は市内の人達にも知らされなかったらしく、誠に衝撃的で悲しい出来事として同級生の胸を痛めました。
それは伊達町出身のKさんが、郷里の小学校に赴任された矢先、授業中に教壇から警察の手によって拉致され、拘留中の二ケ月目に留置所内で病死されたのです。このことは秘密裡のうちに伝えられて行きましたが、余りの痛ましさから同情心にかき立てられ、一体そのような事態に追い込んだ責任は、誰か、どこにあるのか、学校か、友人か、それとも指導担任か(事情は明らかでしたが―)表だってことばにはっきり出せなかったとしても、卒業に際してはなばなしく生徒会の刷新を果たした同級生のリーダーの責任はどうして問われないのか?一部の友人仲間には長い間ささやかれていたことは事実でありました。
※ ※ ※ ※
それから幾星霜、もはや同級生も八十歳を越えて、既にクラス会も一昨年で終りを告げました。
今日、ここで、「であい」二十二号の誌面を通して、当時の卒業生代表として、また生徒会の責任者にえらばれた者として、Aさんの想い出の中に、悲しかった友の死について一言も触れて下さらなかったことを、どう受け留めてよいのか、複雑な気持を告白したい気持です。正直に申し上げますと、長い間の菟罪から解放されたような思いで、Aさんの公正な判断と知性あふれる愛情による、あの世からの無言のメッセージとなぐさめとをいただいたようなさわやかさを感じ取った次第ですが、今になってみれば、“すべては神のみぞ知る” そして “裁きは神である” の心境で、静かに考えることが出来るようになりました。人間の弱さからくる責めぎあいは、時の経過と共に、悼みや赦しとなって、悠久の流れの中に過ぎて行くものです。
今はただなつかしい思い出として、恩師と旧友のすべての方々に、心からのご冥福を捧げるのみです。
私にとってAさんは二人とない尊敬できる友でした。
(平成七年十一月二十二日記す)
痒みが痛みより辛いことは、身をもって知っております。
さぞお辛いことでしょう~~。
急がば回れ、おっしゃるように体質改善・デトックスですね。
(三日食べなけれが、全て治る)という本もあります。
足し算より引き算、お食事との因果関係にも気を配られ、
少しでもお辛さが軽減されますよう、祈ってやみません。
お大事に!
中野恵子様
皮膚炎のご心配ありがとうございます。中野さんの言われるように三日間くらい絶食すればいいのでしょうが、それだけの根性がないので姑息に長期戦を覚悟してます。でもそのことより、中野さんが4年前のばっぱさんについての拙文を読み直してくださっていることです。実は明日あたりセビーリャのシスター高原さんに『虹の橋』を送るところでした。中野さんは既にそれはお持ちなので、そのうち『虹の橋 拾遺』をお送りしましょう。お楽しみに。