さて先日はばっぱさんの「推定無罪」などという思わせぶりなことを書きながら、その後すっかり放置したままだった。と言って、その後の「調べ」が進んだわけではないし、今さら事件を詳しく追ってみるつもりもない。とりあえず今まで分かった、あるいは推測したことをまとめてみるつもりだが、今日はその前に、佐々木家の歴史に関して少し面白そうなこと(?)が分かったのでその方の報告を先にする。
それはばっぱさんの百二歳の誕生日(七月三十日)までに『虹の橋 拾遺集』を作ろうとしていた過程で分かったことである。つまりこのところ時間があると(時間などあり余っているようだが、雑用が重なって一日があっと言う間に過ぎてゆく)ばっぱさんが書き残した文章やら短歌などをワード文書に取り込んでいた。今回がたぶん最後の文集になると思うので、祖母・安藤仁の遺文や大叔母(島尾敏雄の母・トシ)の手紙、さらには祖父・幾太郎が安藤家(彼が婿として入った)と井上家(彼の実家)について平等に(?)書き残してくれた家譜を収録するつもりでいる。
しかしそうした作業を続けながらも、ばっぱさんの連れ合い、つまり我が父・稔のことが気になりだした。確かに『虹の橋』とほぼ同時期に、『熱河に駆けた夢 佐々木稔追悼文集』(呑空庵刊)を既に作ってはいる。しかし若くして死んだこともあって、我が家では母方の親戚と比べて父方のそれとの交流は少なかった。もちろん私が小五の秋、北海道から内地(たぶん今も向こうでは本州のことをそう呼ぶはず)へ移住してからは、同じ町に住む父のすぐ下の弟・堀川直(つよし)を通じて、佐々木家の人たちとの交流も少しずつ増えてはいた。だから彼からいろんなことを聞き出せたはずだったが、いつでも聞けると安心していたのがまずかった。つまりこの叔父も昭和五十八(1983)年、六十九歳の若さで他界してしまったのである。
そう考えると、平成八(1996)年に相馬の松川浦の民宿で佐々木家のいとこ会をやったことが、佐々木家の親戚同士のつながりがかなりの程度まで回復することに役立つ実にいい機会であったことが分かる。幼い子どもたちも入れると総勢30人以上も集まり、終わった時点では異口同音にこれからはオリンピック並みに4年ごとにやりましょう、と誓い合ったことも覚えている。
しかしあれから18年、4年後どころか以来一度も集まることも出来ず今日に至っている。物故者も既に何人か出、高齢化も進み、それに今回の大震災。あの時集まって本当に良かったと思うしかない。さてこの先はどうなるか。元気な者たち同士、努めて音信を絶やさないで次代に望みを託すしかないだろうが、我が家の場合だけでなく、いまや時代の風潮なのか、かつてはあった濃密な親戚づきあいが徐々に薄くなっていくような気がして、はなはだ心もとない。
ともあれ今回、今の時点でも出来ることはやってみようという気になって、佐々木家の系譜について二、三心当たりに当たってみることにした。一つはビスカイーノの紀行文の翻訳をしたときに知り合いになった相馬市市史委員会のK氏である。先日氏に電話したところ、この四月から市民課に栄転になったとか、しかし彼の紹介で相馬藩に詳しいT氏を紹介してもらった。そのT氏、近く拙宅に寄ってくださることになっている。
もう一つの手がかりは、父の兄の孫で函館に住むN. Tさんである。彼はむかし直叔父が函館を訪ねた際、その叔父から佐々木家の歴史をかなり詳しく教えてもらった人だ。彼は既に他界した従姉の子ではあるが、私よりわずか二つ下で、例のいとこ会以来時おり手紙のやり取りをしてきた。むかしはどの家もそうだが佐々木家も子だくさんの家で、父の兄弟はなんと七男四女の11人。父は六男、堀川の叔父は七男。だから上と下では親子以上の年齢差がある。
言い忘れたが、ばっちこ(末っ子)の叔父は、遅く生まれたおかげで佐々木家の繁栄の余沢を受けることもなく、幼少時から没落の被害をまともに蒙った。以前よく東京での苦学時代の話を聞いたが、話術が巧みなのか何度聞いても実に面白かったことを今でも覚えている。そんなこともあって佐々木家への思い入れは誰にも負けず、H川家に婿入りしたが生涯佐々木家への愛着を忘れることなく、相馬市にある佐々木家代々の墓の世話を子どもたちに念を押して世を去った。
さて今回、その函館のNさんからのメールで、佐々木家のルーツがかなり分かってきたのである。以前も一度、彼からぼんやりと聞いていたことを今回は確認することができたわけだ。
いずれにせよ佐々木家の系譜など他人には面白くも何ともないだろうが、いま少し勘弁願う。というのは一つ面白いことが分かったからである。つまり佐々木家があの坂本竜馬の暗殺に関わったとされる京都見回り組の佐々木只三郎に縁のあった一族だという話である。
Nさんの手紙にはこう書かれている。
「処でお手紙の佐々木家のルーツの件について、先年と言っても40年位前の事ですが、堀川の大叔父が函館にお出でになった時に、新撰組土方歳三が戦死したと言われる場所に出向き供養をされたことを知りました。その訳をお聞きしましたところ、幕末の京都見廻り組の佐々木只三郎は当佐々木家と縁が有るとのこと、それ故戊辰戦争で戦死をした幕府方の土方歳三の霊にお参りをしたのだと説明されていた事を良く覚えております。
その後大叔父から聞いた事ですが、佐々木の先々代が幕末に会津から仲間3人で相馬に移り、武士の商法ながら、ろうそくの商売を始め成功した、他の仲間も一人は米屋、もう一人は薪炭業で成功、しかし時代の変化でろうそくの商売は衰退、その後佐々木家の大叔父達が其々の道を歩まれたとの事でした。…中略…母は豊原 [樺太] の生まれ育ちですが、大正8年のスペイン風邪で警察官であった父(佐々木家次男・兵蔵)を亡くし(31歳)、その遺骨を持って母親に連れられて相馬に行った折の事を良く話していました。母が4歳頃の記憶ですが、相馬のおばーちゃん [仙台・鉄砲町の守谷興昌長女モト] にやさしくしてもらったこと、大きな梨を両手にしたことなど、また相馬の駅から他人様の土地を通らずに行けた程の家であったとも、蔵もいくつか有り盛んな時もあったという、佐々木の家の事を誇らしげに語っていました。」
ということは、以前相馬市・市史委員会からもらった『衆臣家譜』(5分冊)をいくら探しても分からなかったのはとうぜんで、T氏に拠れば戊辰戦争後、会津から相馬に来た武士たちはそこには収録されていないそうである。
奥羽越列藩同盟の中心であった会津藩は安部晋三の先祖たち(!)の新政府軍に敗れ、あの白虎隊の自刃などのあと、その大半は陸奥斗南(となみ)に移封、次いで廃藩となったが、佐々木家の先祖たちのように東北の各地に逃れた者もかなりいたということだろうか。
それにしても先祖が始めたというろうそく屋が米屋や薪炭屋とは違って、やがて電気の時代となって没落したとは、何たる皮肉、それから百数十年後、今度は原発事故に被災したわけだ。なぜろうそく屋になったか。おそらく会津時代、そこで盛んだった絵ろうそくの製法を家人の誰かが知っていたからではなかろうか。ろうそく屋をしたことは他からも聞いたことがあるが、いくつか蔵を持つほど繁盛していたことは今回初めて知った。住所がはじめ中野北反町2番地、次いで寺前149番地であることは、直叔父が書き残した先代以後(私からすれば祖父)の記録から分かっていたが、直接行って確かめることもしないでいた。
ともかく没落後、佐々木家の兄弟たちは北は稚内、南は名古屋へと、各地に分散してしまった。私がもう少し若ければ、かつて安岡章太郎さんが『流離譚』(1976~81)でやったように「錯綜する歴史資料との格闘を通して、安岡家の祖先を描き出すことに成功」(ブリタニカ国際大百科事典)するのに。そのとき彼は五十六歳…あっそうか、若さだけでなく文才が必要だったわい。それにしても佐々木只三郎との「縁」とは血縁なのかそれとも地縁なのか。本来ならば会津に出かけてでも先祖探しをするところだろうが、それだけの体力も根気もない。先祖が会津のサムライだったということを知っただけで満足することにしよう。
そんなこんなで、今まで全く興味がなかった京都見回り組や戊辰戦争、函館戦争などのことまで調べ始めている。ほんと、この調子だと忙しくて死ぬ暇もなくなるわい。