ばっぱさんの手紙一通

昭和三十五年十二月二十一日発信

†主の平安
 お便り拝見致しました。意外なことと言えばそうですが、お母さんは読んで行って何か安心した気持とよかったという喜びで涙がこぼれて来ました。お兄ちゃんがその気持(今のところ)を知ったら、百万の味方を得た嬉しさでしょう。これだけは無理に考えることは慎まなければならないと思ってそのように考えてもみなかったけれど、お兄ちゃんよりも性格的にふさわしいなどと関先生 [原町教会のカテキスタ] がほのめかしておられたことなど考え、その時はお兄ちゃんをけなされたような気がして、気持ちよく思わなかったけれど、矢張りそうであったのかとほほえましく思い出されます。お兄ちゃんともよくイエズス会をあこがれていたこともあったが、お兄ちゃんは自由の身でないし、諦めていましたが、お母さんとしては本当に嬉しく本望です。家のことやお母さんの老後のことなどは決して心配なく、心細くもないと迪ちゃん [姉] とも時おりみゆき [姪] も出来るなら将来は…と語らずとも心の中でのぞんでいる次第です。
 達雄さん [義兄] とも時々話し合うが、根本的に理解されないイデオロギーの対立があることを考えても絶対的な勝利のためにも身を挺していただくより方法はないと思うのです。
 意地を張ってではなく、最も正しく最も大切な最良最高の道であるからです。尊い使命と考えてください。
 政治の行きづまりも教育の行きづまりも原因ははっきりしているのです。然しはっきりしていないのが指導者であり一般大衆であるのです。まあ神様の御召命があればよろこんで従うべきでしょう。
 学期末で忙しいから、あとでゆっくり話し合いましょう。ボーナスが出ましたから送ります(五千円)。
 関西旅行にも行かなかったのですから出来るだけ見て来てください。マルの範囲内できゅうくつでしょうが――。
 大阪では孝郎ちゃん [従弟] におもちゃ(動物)又は(動くもの)手みやげ おかし二百~三百、計五百円くらいでは如何でしょうか。


修学旅行にも行かなかったので、修道院に入る前に一度京都・大阪を見たいと思い、この年、帰省前に、大阪・京都そして当時舞鶴にいたレデンプトール会のO神父のところまで行き、そのあと裏日本周りで帰省した。

 [解説?] 亡母の百二歳の誕生日に何とか間に合わせたいと時間をみつけては『虹の橋 拾遺集』の原稿を整理しているが、そんな折、私の古い日記帳にはさまれた大昔の私宛の手紙を見つけた。昭和三十五年十二月、といえば私が大学三年(上智大学イスパニア語学科)のとき、当時住んでいた初台レデンプトール学生寮、つまり初台カトリック教会の聖堂裏にあった寮(もう一つ、少し離れて道路に面した木造二階建ての寮もあった)で、それまで考えてもいなかった修道者の道に進む決心を固めたときである。私からの手紙に答えて母が書いて寄こした便箋二枚の手紙だが、今読み直してみても息子二人を神様に捧げようとするばっぱさんの度量の広さに感動する。
 四歳上の兄は既に教区司祭を目指して神学校に進んでいたので、その兄に続いて自分もなどとは考えてもいなかった。むしろ努めてその道を避けていたはずなのに、どういう風の吹き回しか突然翻意したわけだ。翌四月からは大学学生寮に移り、スペイン語科四年生の課程を続けながらイエズス会志願者としての道を歩み始めた。自分の道は修道者へのそれではないと気づくのはそのときからご六年後。しかしその時々は真剣だったから、その六年間を回り道だったとか無駄だったなどと考えたことはない。そのときのことを「魂の兵役」などと格好つけた言い方をしたこともあるが、当たらずとも遠からず。
 しかし人生の最終コースをよたよた走りながら、いやとぼとぼ歩きながら、ばっぱさんの夢や希望に応えられずにきた来し方を考えて、ばっぱさんの期待とは違った形ではあるが、残された時間の中でなんとか頑張りたい、とは思っている。何を今さら、いや今ごろ、などと笑われそうだが、まあやれるだけやってみるさ。
 ともあれ、ばっぱさん、あなたは偉かった!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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ばっぱさんの手紙一通 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     ばっぱさんの言われる「最も正しく最も大切な最高最良の道」を「神の愛」(コリント人への第一の手紙13)を学び、そして、それに従って生きていく道と私は考えました。ヒルティが『幸福論』の「超越的希望」の中でこう言ってます。

     「われわれの現在の生活や本質にとって、信仰の根拠として必要であり、したがって同時にまた、納得できるものは、ただ次のことだけである。すなわち、もしも信仰がなかったら、いいかえれば、われわれの感性的知覚では捉ええない超感覚的なものに対する信頼がなかったなら、われわれは人生目的の全体を達成することができないということ、また、信仰があれば本来そこまで発展することができ、したがって、そこまで発展することが当然われわれの使命であるような、そのような段階まで実際に向上することができないということである。次には、そうした段階に達するには、人間的な好悪の感情に基づくところの愛情よりもいっそう強力な愛の力が必要であるということ、そして、このより強力な愛の力こそ、おそらく生命を創造し、生命を維持する要素であり、かつ死をも克服する要素であるということである。」

     先生が『モノディアロゴス』(2002年8月24日「私の宗教」)の中でこう言われています。

     「今言えることは、これまで長い間判断を保留してきたたくさんの問題の中で、この「私の宗教」こそ最大の課題であり、難問であり、そろそろ、いままでのような逃亡者(fujitivo)を気取ってなどいられない、ということである。」

     『モノディアロゴス』を二年余り拝読して感じるのは、先生の文章は正に『コギト(われ思う)』の中にある詩に集約されているように私は感じます。そして、そのことが「ばっぱさんの期待とは違った形」の意味なのかも知れません。

      私の書くものが

     私の書くものが
     全く日本的なものであっても
     そこに息づいているのは
     深い味わいのある聖書
     の雰囲気であること
     これが私の理想、義務
     あゝ尊い義務である。
     そのためには日に日に
     聖書に親しみ
     祈りにおいて味わい
     心の中に香り高いブドー酒の
     ように満々と蓄えられて
     いなければならぬ。

     

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