The heart of the matter

 「カルペ・ディエム(この日をつかめ、今を大切に生きよ)」というホラチウスの言葉を今まで何度か使わせてもらったが、しかし実際はどうかというと、とりわけ最近では、「死に急ぐ」とまではいかないにしても「生き急ぐ」に限りなく近い生き方をしているようだ。つまり余裕の無い生き方。今という時を楽しむ、充実させるということからはほど遠い生活である。
 たとえば最近、必要な買い物以外に外歩きをしなくなったのは仕方が無いとしても、ほとんどテレビを見なくなった。軒並みくだらない番組ばかりになってきたからだが、無数に取り溜めてきたビデオ映画を見ることも絶えてなくなった。窓外にしばし狂うように咲き誇った白百合の花(はて頴美が植えたのか、それとも自生したのか)に眼をやり、その美しさ、造化の神秘に打たれることはあっても、あるいは夕刻、西の空を流れる茜色の雲にふと心奪われることはあっても、それはすべて瞬間的な感動に終わっている。
 そんな自省の念が生じたのは、昨日美子の排便サービスの終わりを待っている時、その所在無さに書庫の本を眺めているときであった。未整理のままただ並べてあるだけの本の中のグレアム・グリーンの『二十一の短編』(早川書房、1967年)をぱらぱらとめくっていて、一つの題名に目が行った、「青い映画」(青木雄造訳)。
 数ページほどの短編だが、むかし読んだ時のうらぶれた人生の黄昏、人間の悲しさみたいなものを感じたことを思い出したのだ。確かベトナムあたりを観光で訪れた中年夫婦の物語。同行の他の夫婦たちとの感情的な行き違いなどもあって、何か刺激的な体験をしたがっている妻のために、場末の汚い小屋にブルー・フィルムを見せに連れて行くのだが、なんとその映画にかつての自分と若い娼婦が映っていたのだ。とうぜん妻は夫だと気づき、さんざんなじる。

「僕としては、あれが女を助けてやれる唯一の方法だったんだよ。それまであの女はああいう映画なんかに一度も出たことはなかったんだ。だから友だちの援助が必要だったのさ」
「友だちですって」とカーター夫人は言った。
「僕はあの女を愛していたんだ」
「売春婦を愛するなんて、とてもできないことだわ」
「いや、できるよ。その点は誤解しないでくれたまえ」

 ホテルに帰ってもその興奮が続いていたのか、妻は夫の体を求めてくる。ことが終わったあと、夫は「孤独な、後ろめたい感情をいだきながら、暗闇に黙って横たわっていた。彼は自分の愛した、たった一人の女をその晩裏切ったような気持ちになった」。小説はここで終わる。
 珍しく最後まで読み直した。たった5ページの短編だが、一人の男のままならぬ人生の悲哀を見事に描いていて、かつて感じた印象が間違っていなかったことを確かめた。G・グリーンの代表作に『事件の核心』というのがあるが、原題は “The heart of the matter”、つまり「事の本質」という意味だろう。グリーンは題名だけでなく、その殆どの小説において読者を事の中心に一気に誘い込む。ということはその中心についての説明が無いため、初めは深い謎に包まれているということである。その意味では実に映画的で、『第三の男』、『落ちた偶像』、『ハバナの男』などその特徴が遺憾なく生かされている。
 いやここでG・グリーン論を展開するつもりではなかった。ただもう一人のグリーン、すなわちアメリカ系フランス人作家ジュリアン・グリーンなどと共に、若いころ(なんて言葉が板についてきました)熱心に読んだことを懐かしく思い返したのである。
 このごろ、いや実はもっと前から、短い老い先を考えすぎて、目の前のことを楽しむ心のゆとりが無くなっていた。これが何のために役立つだろうか、などと考えることをせずに、たとえば今読んでいる小説なりを純粋に楽しむことを忘れていた。このままだと干からびてしまう。
 明日から、いや今から仕切りなおしだ。それでとりあえずG・グリーンのまだ読んでいなかった『キャプテンと敵』(宇野利泰訳、早川書房、1989年)を読み始める。やはり最初から「事の中心」に誘い込まれる面白さがある。そうだ当分グリーンの世界を楽しもう。原書は持っているがまだ読んでいなかった『キホーテ神父』(宇野利泰訳、早川書房、1983年)がアマゾンで1円で売っていた。買わないって法は無いしょ。そうだ、ついでに『見えない日本の紳士たち』と『国境の向こう側』(共にハヤカワepi文庫)も注文しちゃえ。
 少し元気が出てきました。でもこんなことをしていたら、忙しくて先のことなど考えてる暇が無い。そう、それが本当の the heart of the matter.

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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The heart of the matter への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     文章を拝読して、漠然とオルテガと人間の尊厳という言葉が頭に浮かびました。しかし、それらを関連づけて何か書きたいんですが書けませんでした。G・グリーンがカトリック系の作家ということは何となく知ってはいましたが、彼の小説は読んでません。先生が引用されている文章を何回か読み直してみて、先生の本に『大学の中で考えたこと』があり、その中にこんな文章があったのを思い出しました。

     「佐久間哲学とは何か。おそらくそれは観念の翼を借りて現実界から遊離することとは反対に、あくまで庶民=人間の立場に立って、つまり人間の限界、弱さ、罪ふかさ、愚かさを丸ごと引き受けながら、それでもなお人間の尊厳を、人間の美しさを信じることかも知れない。」

     人間が生きるということは、誰もが避けられない死を背負っていること、人間の悲しさの根源にはそういうものがあるとモノディアロゴスで先生が言われていたのを覚えています。宗教であれ哲学、文学、芸術、そして私たちの日常のありふれた風景に至るまで、その意味を自分自身に問い続ければ、人間の尊厳に繋がる、先生の文章からそんな示唆的なものを私は感じます。

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