さらば!右肩上がり

このごろ夫を毒殺したとして逮捕された67歳の女が話題になっている。だいぶ前にも、確かカレーライス毒殺事件とかで、やはり女が世間を騒がせたことがあった。毒殺犯の性別にこだわるつもりは無いけれど、しかしあの執念は…いや男性だってもっと残酷な事件を犯しているわけで…うっ、やっぱこだわっているか。
 いや言いたかったことはそんなことではない。もしも彼女が真犯人だとしたら、いつ死んでもおかしくない年齢なのに、どうしてそこまでお金や生活の安定に執着するのか、大きな謎としか言いようが無いということである。しかし良くよく考えてみると、人間なんてみんな大なり小なり彼女みたいなことをやっているんじゃないか、とも思われてくる。
 話はとたんに大きくなるが、要するにいま世界で起こっているほとんどすべてのことが、彼女の狂気と比べてもどっこいどっこいの愚かな執着に過ぎないのではないのか、ということである。つまり現代の地球規模の環境破壊・資源浪費、それが危うくなってきたといっては、例えば原発のような地球それ自体を破壊すること間違いなしのもの(もちろん並行して開発されてきた核兵器ともども)に対する愚かな執着だって、彼女のものとさして違わないということである。
 時おり考えて頭が痛くなるのであまり考えないようにしていることがある。簡単に言えば地球そのものにも寿命があるということ。まさか永遠に存続するはずも無い。そんなことは天文学、地球物理学、あとなんだか分からない高度な学問に拠れば、地球の最後がいつごろか計算されているわけだろう。原発事故のあとのあるとき、頭を過ぎったのは地球最後の日のこと、そこでそれを描いた小説や映画を探しまくった。その時、頭の中をしきりにグレゴリアン聖歌の「怒りの日(Dies irae)」が流れていたものだ。
 いやそんな日ははるか先のことだと言われても、その日がいつか来ることは間違いない。宗教が立ち上がって来るのは、そんな終末意識の中からであろう。しかし今は宗教のことはさておいて(?)、ともかく、あたかもこの世が永遠に続くかのように、そして資源が無限にあるかのように、領土や資源をめぐって、あるいは国や民族の面子をかけて戦争をやっていることの愚かしさ、あくなき支配欲で少数民族の文化や伝統を破壊してまでおのれの支配下に繋ぎとめようとする大国の強欲。もちろん毒殺犯の女とスケールが違うだけでやっていることは似たようなものだ。誰が言ったか分からないが(もしかして『独裁者』の中のチャップリン?)、「一人殺せば殺人者、戦争で大勢殺せば英雄」と同じ理屈である。
 それにしても元気っすなー、衆議院解散の議場でバンザイしてるの図、ぐれーつ極まりない滑稽な光景。みんな前のめり。いつから使われ出したんでしょうかねー、あの「右肩上がり」という嫌ーな言葉。人間の自然な体形は両肩平衡です。確か司馬遼太郎さんが言った大好きな言葉がある。「美しき停滞」。経済用語に言い換えると「ゼロ成長」。なんで右肩上げなきゃならん? それで貧しい人が減るならいいが、不自然に右肩上げると格差が広がるだけ。
 回し車の中のこまねずみみたいな生き方、もういいかげん止めようよ。


※追記 原発事故のあと頭に浮かんだのは、もちろん地球の寿命と言うより、それ以前に愚かな人間たちによって人為的に崩壊することだった。でも人間たちが知恵を出し合って自滅を逃れたとしても、いずれ…やはり頭が痛くなってきます。でも分からないのは、毒殺犯の女は、そして愚かな人間たちは、いずれ自分の寿命が尽きるから、世の終わりが来るから、それでなりふり構わず、やけくそになって強欲振りを発揮しているのか、ということ。どうもそうではなさそうである。なぜならやがて訪れる死とか、地球の寿命あるいは不幸にしてその自滅の可能性を考えるだけで、人は自然に謙虚になり、おのれの生き方を真剣に内省し始めるであろうからである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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さらば!右肩上がり への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     アベノミクスによって格差社会が加速しています。私は政治というのは、弱い立場にいる人たちでも安心して生活できるように社会を構築することだと思います。人生において生きる苦労を少しでも経験していたら、安倍さんはもう少し人の痛みがわかる人間になっていたと思います。おとなと子供の違いはそれがわかるか否かなんじゃないでしょうか。苦労知らずの人が権力を持つことほど恐ろしいことはありません。アベノミクスという言葉を安倍さん自身が世界に向けて言っている姿を見て、私は強い憤りと違和感を持ちました。

     先生が美子奥様の介護の話をここ最近されていますが、「ヨカッタネは魔法の言葉」を拝読して感動しました。弱い立場にいる人に温かい言葉をかけることが、いかにその人の生きがいに繋がり、生きる力になっていくか計り知れない効力があると私は思います。そして、まさにそういうことが、政治家に求められていることなんだと思います。

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