島尾敏雄の著作に『忘却の底から』(晶文社、1983)というのがある。これは晶文社全集の月報に連載されたものだが、作品創作とは違って、純粋に自分の出自を一族の歴史の中に探ったものである。といって名家や旧家のような正確な家系図や古文書が残されているわけでもないので、いきおい一家に言い伝えられた不正確な口伝に頼らなければならなかった。ただ唯一例外的に文書として利用したのは、彼の伯父そして私の祖父にあたる安藤幾太郎のごく簡略な記録である。それは我が母・佐々木千代の『虹の橋 拾遺』(呑空庵刊、2014年)に収録しておいた。
と、ここまでいささか意味ありげな前書きを書いてしまったが、これから私が書こうとしているものは一家の歴史といったような大層なものではなく、ただひたすら私個人のまったく私的な記憶、それもいま書き残さなければすべて忘却の海に没してしまう態の、実にぼんやりとした思い出の数々である。
だがいまさら断るまでもなく、なにもそれらが記憶に留めるべき重要な、あるいは価値ある思い出であるというわけではない。つまり他人にはほとんど意味の無い人生の些事なのだが、残り少ない時間の中で、もしも私自身が拾い上げてやらなければ無明の海に消え行く類のものである。無明などと使い慣れない仏教用語まで出してしまったが、考えようによってはまこと煩悩の闇に消え行くままにしておいた方がいいのかも知れない。しかしだからこそ、と生来の反逆精神が頭をもたげてくる、それら無価値で哀れな生の断片を丁寧に拾い上げたいのである。
そして先ほど、隣の部屋にあるファイルボックスを見に行った。かなり大きなケース二つに「あいうえお」順に整理された書簡類が入っている。たいていの人ならほとんど「整理」するであろう来信だが、いつからそんな扱いをしたのかも忘れていた(ここ数年間のものは未整理のままだ)。しかしこれらも思い出探索の重要な手がかりになるのではないか、と考えている。
先だって祖母・安藤仁の思い出の記に関しても言ったことだが、一人の人間の生きた証拠として改めてこれら生の砕片を見るとき、すべてが意味を帯びて立ち上がってくるように思われる。もちろんそれら砕片を披露する際、私なりの配慮をするつもりだ。しかし現今のあまりに行き過ぎたプライバシー尊重の風潮に対しては批判的な考えを持っている。つまり誹謗中傷でないかぎり、そしてそれが当事者の心を傷つけるものでないかぎり、時に慎重にイニシャル表記を使ってでも書き残しておきたいのだ。
いやいや、前置きはこの辺にして、これから時おり、行き当たりばったりに、そうした我が過去の砕片を拾い集めてみようと思う。これまでだってこのモノディアロゴスは、過去の砕片を拾い集めたことが何度もあったが、いま改めて、上記のような意識をもって、その都度、気が向いたときに書き込んでいくことにする。
さて手始めに何から始めようか、と言いながらも数日前から気にかかっている一つの砕片があるのでそれを皮切りにしよう。
私がイエズス会にいた頃の話だから、もう半世紀も前のことである。あるとき戦後作家の一人椎名麟三氏をご自宅に訪ねたことがある。たぶん山手線沿線の、それがどの駅かは思い出せないが、新宿に近い線路際の木造二階建てのお家で、応待されたのはその二階の居間だった。座卓の向かい側の椎名氏のお顔は思い出せないが、近くに割烹着姿の奥様がおられたことはぼんやりと覚えている。氏は心臓の持病があるので時々ニトログリセリンを服用しなければ、とおっしゃったような気がする。
なぜお訪ねしたかは覚えている。その頃エバンヘリスタ神父さんと共訳の形で桂書房という小さな出版社から『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』を出版するに当たって、その帯に短い推薦文を依頼するためだったと思う。でもなぜ椎名氏に? そこのところがはっきりしないが、おそらく最初、フランス文学者の渡辺一夫氏にお願いしたが、ちょうど氏は病気で入院中とか、病院から丁寧なおことわりのハガキをいただいたのではなかったか。探せばどこかにまだ残っているかも。
そこで、熱心なプロテスタントである椎名氏の名前が挙がり、その頃すでにお付き合いのあった埴谷雄高さんに紹介をお願いしたはずだ。しかしそのときの訪問で原稿料のこと(税金のかからない支払い方法)まで話は進んだのに、結局は椎名氏側の何かの都合で話は振り出しに戻ってしまった。現在手元に残っている帯を見ると、東大名誉教授で倫理学者の金子武蔵氏の推薦文になっている。おそらくこの先生と面識のあったA・マタイス神父さんの手配したものではなかったか。私の蔵書で帯など残っているのは珍しいことなので、その全文をコピーしておく。
「イグナチオは、近代史に大きな足跡を残したイエズス会の創立者であり、彼の同志の一人は、日本にはじめてキリスト教を伝えたザビエルである。いま彼の自叙伝と日記とが邦訳されて、その生涯の内面に接することのできるようになったのは幸いである」。
ここまで大作家訪問の記憶を辿ったのは、実はこの砕片にはもう一つ私にとって重要な意味があったからだ。つまりその訪問は私一人で行ったのではなく、連れがいたのだ。それも若い女性が。とまたもや思わせぶりな言い方をしてしまったが、その女性とは私の従妹N子さんである。どうして彼女が一緒だったか、それが思い出せなかったのだ。しかし面白いもので、夢の尻尾を根気強く引っ張っていると徐々にその先が見えてくるように、こうして椎名家訪問を辿っていくうち、なんとなく見えてきたのだ。そうだ、彼女は大学生、確か日大の芸術学部の学生で、椎名麟三論か戦後文学を卒論のテーマにしていた。そして何かの話のついでに椎名家訪問の話が出て、それで一緒に、となったのではなかったか。
北海道帯広での少年時代、母方の四家族のいとこたちは普段から頻繁に行き来し、夏休みなど、当時上士幌の山の中に住んでいた祖父母のところに集まったりしたものだ。私のところが一番の年長さんだったが、『若草物語』のように女の子だけの四姉妹の二番目だったN子さんは男の子顔負けの活発で頭の回転の早い子だった。そのときから幾星霜、花の東京で二人は再会したわけだ。私は修道者の卵、彼女は女子大生。しかしそのときから程なくして彼女は病に斃れ、なんとも無念の死を迎えた。恋人か許婚者がいたと聞いている。病気は頭痛薬N(間違っていたら会社に訴えられるので頭文字だけにしておく)の飲み過ぎによる膠原病だと人伝てに聞いたような気がする。
たしか膠原病。でも当時もそして今回思い出して調べるまで、病名は高原病と書くと思っていた(何たる無知!)。若い女性の死ということでロマンチックに(?)そう勘違いしたのかも知れない。そのN子さんの末の妹が以前このブログを読んでメールをくれたことがあるので、もしかしてこれを読んで正しい情報を教えてくれるかも知れない。
こんな大事なことを今頃思い出し、それも淡々と書いてしまったが、このことに限らず、この75年のあいだ、なんと多くの大切なことを忘れてきたことか。いま椎名氏の亡くなられた日時を調べた。1973年(昭和48年)3月28日、享年61歳ということだ。とすると私たちがお会いしたのは1966年だから氏はまだ54歳だったことになる。えーっ信じられない、そんなに若かったのだ。(いや、今のお前が歳をとったということだよ)
私のパソコンに「死者たちの記録」というページがあり、今のところおよそ60人ほどの死者の記録が載っている。死者といったが、実は愛犬と愛猫の命日も記載されている。N子さんの命日が分かればぜひそれに加えたいと願っている。いつか私と美子の命日が加えられ……でも誰が書き継いでくれるの?