脱原発都市宣言

ふだんなら市の広報「みなみそうま」はちらっと見てすぐゴミかごに入れるのだが、今回はその最終ページに目が行った。そこには「原子力エネルギーに依存しないまちを目指して」というタイトルの下、以下のようなことが書かれてあった。


市では、東日本大震災に伴う原発事故を克服し、原子力エネルギーに依存しないまちづくりを推進していくことを広く市内外に表明するため、平成27年第2回定例会において「脱原発都市宣言」をする旨を議会に報告し、平成27年3月25日付けで告示しました。


【脱原発都市宣言】

 2011年3月11日、東日本大震災により南相馬市は未曾有の被害を受けた。
 さらに東京電力福島第一原子力発電の事故に伴い6万人を超える市民が避難を余儀なくされ、多くの市民が避難の中で命を落とした。
 家族をバラバラにされ、地域がバラバラになり、まちがバラバラにされ、多くの人が放射線への不安を抱いている。
 南相馬市はこの世界史的災害に立ち向かい復興しなければならない。
 末来を担う子どもたちが夢と希望を持って生活できるようにするためにも、このような原子力災害を二度と起こしてはならない。
 そのために南相馬市は原子力エネルギーに依存しないまちづくりを進めることを決めた。
 南相馬市はここに世界に向けて脱原発のまちづくりを宣言する。

                            平成27年3月25日
                              
                                南相馬市

 
 一読して先ず感じたこと、えっまだ宣言してなかったの?という驚きである。事故後すでに五年目に入ったというのに脱宣言をしてなかったとは。あわててネットを調べてみると、この南相馬の宣言がこれでも日本最初の脱宣言表明ということだ。まあ今さらぼやいても仕方がない。かくなる上は、少しでも脱宣言をする市町村が増えること。なにも都市でなくてもいい、おらほのムラでもいっこうかまね。だいいち、いくら宣言しても法的な効力は大してないんでしょ? だったらどんどんしたらいい。
 詳しく確かめたわけではないが、高浜原発再稼動に司法がノーの判決を下したらしい。スペインの友人がメールで、それを報じた The Japan Times の記事をわざわざ送ってくれた。でも他方では、再稼動の動きが一向に衰えない。現政権の陰に陽にの後押しがなければ考えられない事態だ。もう一箇所どこかで事故が起こらない限り、日本国民は目が覚めないらしい。そんな国民を同胞なんて思いたくもないカゲキ? そうでしょうなあ、でもそうとでも考えない限り腹の虫が治まらない。
 さて改めて宣言文を読んでみた。起草者には申し訳ないが、なんとも気の抜けた文章だこと。沸々たる怒りを表面に出さなくてもいい。しかし内からこみ上げてくる怒りが全く感じられない。バラバラなどという擬声語だか擬態語が三度も繰り返されているように、文字通りバラバラな言葉遣い。かと思えば「世界史的災害」などという学問的(?)第三者的な表現。
 じゃお前ならどう書く? そう言われてもすぐには思い浮かばないけれど、でも日本最初ということは世界最初ということでしょ? だったらもしも起草を頼まれれば、斎戒沐浴して、気合入れて書きますよ。
 先ほど「怒り」と言う言葉を使ったが、要するに誰を、あるいは何を睨んでの宣言かが明確でないつまり怒りの対象がはっきり見えてないから、怒りが湧いてくるはずもない。この美しい山や川や畑、いやいやそれ以上にすべての先祖や今生きているわれわれ、そしてこれから生まれてくる末来の人間たちにまで、とんでもない被害を、不幸をもたらした奴はどこのどいつだ! 東電か、地方行政か、中央政府か? つまり天災ではなく人災である以上、必ず責任者がいるはずなのに、それが意識されていない。それではまるで天災とどこも違わないではないか?
 でも東電や政府が当事者であっても究極の責任者、いや犯人ではなかろう。韓国の写真家・鄭周河さんが萱浜の海辺で厳しく言ったように、究極的な犯人は、そうした事態を座視し認めるだけでなく、中には積極的に推進してきた人間たちの欲望に他ならない
 日本語に比べて破裂音が多く、そうした怒りを表現するのに実に適した言葉・朝鮮語で、彼は言った。「それは海の過ちではなく、人間の過ちです。…根源は人間です。人間の欲望が作りあげたものが、いま私たちを叩きのめしているのです」。
 そうだ、人間の飽くなき欲望・欲心こそがこの悲劇の真犯人なのだ。今日もこの飽くなき欲望が、ひたすら生活の利便と快適さを求めるこの欲心が、日本列島をすっぽり覆っている。アベであろうとだれであろうと、そうした欲心に骨がらみになった人間たちがこの国の命運を決めている。さてどうする? 革命か? んにゃ、革命起こしたってその人間の欲心を黙らせないうちは、何したって無駄だろうね。だったらどうする? そうさね、倦まず弛まず、機会があろうとなかろうと、そして場所を選ばず至るところに、そうした欲心を鎮める、いや笑い飛ばす平和菌を仕掛けることしかないだろう。しんどいしまだるっこいけど、そうするしかないべさ。
 でも、それって本来は宗教の領域じゃない? んにゃ、今時の宗教者の多くも、ごく少数の例外を除いて、そうした欲心に侵されているわさ。仕方が無い、誰でもいい、目覚めた人が率先してやらなっきゃならないわけ。ここまで読んでくれた君(えっ君って私のこと? そうだよ)、君もたっぷり平和菌が沁みこんだわさ。さっ、君も今日一日、平和菌ばら撒いてきて。

(2015年4月16日00:19発信)

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
カテゴリー: モノディアロゴス パーマリンク

脱原発都市宣言 への1件のコメント

  1. 守口 毅 のコメント:

    人間の飽くなき欲望・欲心。私もそれにしょっちゅう取り込まれます。厄介なヤツです。まったく佐々木さんの、鄭さんのおっしゃるとおり!!
    心静かに自戒しながら、平和菌撒きながら、きょうも生きます。 

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