「セボウ」それとも「うねび」?

相変わらず蔵書の装丁作業が続いている。どこかでもう「病膏肓(こうこう)に入る」とかの言い回しを借りて、この偏執について語ったことがあるので、今さら驚くには当たらないが、それにしても自分でも呆れるほどのこだわり方である。 先日は単に厚紙で表紙を補強するだけではなく、例の紙魚被害に遭った漱石全集の、表紙上辺部分がやられたものを、その虫食い部分に合わせて厚紙を細く切り、それを全集表紙の色、あの有名な赤レンガ色に似た布切れで貼り合わせるという超美技までやってのけた。これで四冊ほど少し見栄えは悪いが旧態に復した。
 さてそんな作業の途中、先日も面白い本に出会った。ユックスキュルの『生物から見た世界』(神波比良夫訳、畝傍書房、昭和十七年)である。畝傍など見かけない出版社だが、最初「セボウ」と読んで、もしかしてフランス語の C’est beau(これは美しい)の語呂合わせかな、と思ったが左(さ)にあらず右でした(これは古ーいギャグです)。正しくは「うねび」と読み、奈良県にある山の名前であること、さらには1886年、フランスで建造され、日本に回航される途中、南シナ海で行方不明となった大日本帝国海軍の防護巡洋艦の名前であることも分かった。
 だが待てよ、フランスで建造された? もしかして私の最初の予想は当たっているかも。少なくとも「セボウ」と「うねび」の両方を仮託したが、のち軍国主義の時代になっていつしか「セボウ」のことは言わなくなったのか。
 いや書こうと思っていたのは出版社のことではない。『生物から見た世界』という本のことである。先ずユックスキュルの本がなぜ我が家にあるのか、ということだが、理由は簡単である。つまりオルテガが「私は私と私の環境である」という彼の哲学の根幹を成す思想形成に当たって、このユクスキュル(現在ではこう表記する)の思想が大きく影響したことを知って古書店から取り寄せたのである(背表紙裏に1,050円と鉛筆書きがあった)。
 著者ユクスキュルについて「デジタル大言泉」の簡略な紹介文を引用しよう。

 「ユクスキュル(Jacob Johann Uexkull, 1864-1944)ドイツの理論生物学者。人間中心の見方を排し、動物には生活主体として知覚し働きかける特有の環境世界があると説き、生物行動学への道を開いた」

 しかしそんな難しい話は別としても、多数の写真や図版があって、この古書は見るだけでもなかなか楽しい。たとえば同じ村道を人間が見る場合、ハエが見る場合、そして何と軟体動物が見る場合はどうなるか、が写真と絵で示されている。軟体動物が実際にそう見るかはかなり怪しいが、しかしユクスキュルの長年の研究データを基にした絵なんだろう。
 他にも書棚やテーブルが置かれた室内の絵があり、それを犬が見たら、そしてハエが見たらどう映るか、なども図で示されている。犬の場合、側の書き物机は色が抜けていて、ハエの場合はテーブルの上の食器だけに色が辛うじて残っている。つまりそれ以外はすべて知覚されないということであろう(ほんまかいな?)。
 と、ここまで書いてきて、確か同じ題名のものが岩波文庫にもあったことを思い出した。わざわざ二階まで行かなくともすぐ近くの本棚にあった(どちらを先に買ったかは忘れたが、たぶん畝傍が先だろう)。著者名はユクスキュルの他にクリサートの名前があるが、この人は挿絵担当らしい。訳者は日高敏隆と羽田節子で2005年初版である。訳者の一人日高敏隆が、戦時中、学徒動員で働いていたある工場の休憩室でこの本に出会って非常な感銘を受けた、とあとがきで書いている。昭和十七年という世情慌しい時代によくもこんな良書が出たな、と感心もしているが、初版三千部のうちの一冊が、たぶんアマゾン経由で我が家にもある、というのもまた奇遇である。一昔前(あるいはもっと前かな?)神田の古本屋街を一日歩き回っても見つかる可能性の薄い奇書が、アマゾンさんのおかげで自宅に届けられたわけで、これはこれで実にありがたい。

「そんな与太話をするためにこんな長い文章書いてるの?」
「いや本人としてみればだね、オルテガやユクスキュルのことよりも、いま国会でくだらない平和なんとかの法案を強引に通そうとしているアベ内閣閣僚の眼が、ハエや軟体動物並みの貧弱な視力しかないことをコキ下ろすつもりだったらしいが、どうも息切れしたようだよ」
「あゝそういうこと。つまり国というものを富国強兵というフィルターでしか見れない単細胞集団だと言いたいわけ? 確かに首相の人相、日増しに悪代官みたいになってきたね。でもそれにしてはちょっと今回は強引過ぎましたな」
「それって首相のこと、それとも貞房さんのこと?」
「首相のこと… いや両方かな。でも貞房さんの方は無害だけれど、首相の方は有害も有害、子孫にも累が及ぶ最悪の法案ですぞ。しかし視野狭窄の政治家を説き伏せるのは無理だとしたら、民主政治の常道として選挙で政権から引き摺り下ろすしか方法は無さそうだな
でもねー選挙民も視野狭窄だったらどうする? どちらにしても、まっことごせやける話だーね」

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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「セボウ」それとも「うねび」? への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     モノディアロゴスの初期のものを相変わらず読み返していましたら、安倍首相に足りないものがわかりました。「含羞」という言葉を先生は二度(2002年8月26日「ララ神父のこと」、2003年2月20日「ある作家の死の周辺」使われていて、そのことだと。

     私は、あくまで私的な考えでは、この「含羞」とオルテガの「私は私と私の環境である」とは自分以外のものを対極としてではなく、同根として認識しているところに基づいて、その真意があるように思います。。先生が言われている、私も同感ですが、「富国強兵」とは、まさに自分(自国)以外を対極として認識したところに、その発想の原点があるように感じます。

     今月の二日に池袋東口にあるジュンク堂という書店で、先生の『スペイン文化入門』を購入しました。四階の西洋哲学のコーナーのスペインと書かれた棚に三冊ありました。生まれて初めてこの書店に行ったのですが、入店して十分ぐらいで見つかりました。読者の方で購入希望の方は寄ってみてください。
     

     

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