小娘と蜜柑

目の前に下がっている今月分のノート式カレンダーが後半部に入ってはや八日目。今日は「風」と「便」と二つ並んだ日だ。つまり月曜は午前中に美子の訪問入浴、午後に排便サービスがある日で、結構気忙しい日である。水曜は「便」だけ、そして金曜にはまた「風」と「便」が重なる。
 時おり他の予定が挟まるが、私の一週間はこれら二つの「行事」を縦糸(あるいは横糸?)に流れていく。時の流れは早いのだろうか、それとも遅いのだろうか、そんなことも分からなくなってきたが、でもこれから先いつこの流れが途切れるのか、それはいつも気にしている。
 相変わらず食事の準備や美子のオシメ換え、二日にいっぺんの割での買い物の合間に、蔵書の蘇生作業やつまみ読みを続けている。漱石の『行人』のあと、やはり『道草』を読み始めた。これも日本語とスペイン語を交互に読んでいる。相変わらず辛気臭い世界だ。いや『行人』よりさらに辛気臭い。でも先日書いたように、なぜだか心引かれて抜け出せない。
 漱石の憂鬱が乗り移ったかのように、なんとなく気が晴れない日が続いている。かといって、実世界の方でも面白いことは何も無さそうだ。安倍晋三などという歴代最低の首相を野放しにしている政界、マスコミ、そして一般大衆。言いたい放題、やりたい放題の彼を一喝し縮み上がらせるぐらいの「重鎮」はいないのだろうか。みな遠くで礼儀正しく上品に批判しているだけ。
 そんなとき、漱石の『道草』の側に、芥川龍之介の西訳本が目に入った。『或る阿呆の一生』の他、六篇の短編が収録されている。そして冒頭に収録されている「蜜柑」の文字を見て、昔読んだときの感動が一気に蘇ってきて、はや目頭が熱くなった。『道草』の健三の気鬱にそれだけ参っていたのかも知れない。スペイン語でわずか六ページのものを読み返していくと、予想通りやはり泣けてきた。列車を舞台にした名作は他に志賀直哉の『網走まで』があるが、読むたびに心が洗われるような感動を覚える。安倍なんぞのことなど思いっきり忘れることができる。
 読み終わってから急いで廊下の本棚に並んでいる新書版『芥川龍之介全集』(岩波書店)の第三巻を持ってきて読み返した。書き出しから一気に龍之介ワールドに引き込まれてゆく。

「或曇った冬の日暮れである。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待ってゐた。……」

 発車間際に、駅員から怒鳴られながら、しかも三等切符なのに間違って飛び込んできた小娘、「横なでの痕のある皸(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい」十三四の小娘は、初めのうちすべてに疲れ切って厭世的なこの「私」には侮蔑と無視の対象でしかなかった。ところがトンネルを二つばかり抜け出たとき、急にこの小娘が重い車窓を必死に開けようとする。もちろん「私」は、出来れば永遠に開かなければいいと冷ややかに見ている。するとトンネルを抜けた先の踏み切りのところに立っている、やはり頬の赤い小さな三人の男の子が、目白押しに立って「いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分からない喚聲を一生懸命に、叫んでいる」。その彼らに向かって、ようやく硝子窓を下ろした小娘がやおら懐から出した蜜柑を五つ、六つと投げるのだ。
 つまり奉公先へと旅立つお姉ちゃんの、小さな弟たちに対する心ばかりの餞別だったわけだ。このとき「私」は、初めて「云いやうのない疲弊と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」(了)
 鮮烈なまでの感動が胸を突き抜ける。この小娘の一途な、必死の「生」の姿こそ、漱石、龍之介、そしてその子孫たるわれわれ「近代人」が無益無謀な「進歩幻想」の果てに忘れ去っていたものなのだ。私もここ数日の曰く言い難い倦怠と無力感からいっとき抜け出すことが出来た。ありがとう、小娘さん、そして龍之介さん!


【息子追記】立野正裕先生からFacebook上でお寄せいただいたお言葉を転載する(2021年2月17日記)。

この項は題を見ただけですぐさま龍之介の短編小説が念頭に浮かびました。というのも、このところやりかけている仕事に龍之介の「奉教人の死」を取り上げるので、しきりに龍之介の小説やエッセイを読み返していたからですが、そうでなくとも「蜜柑」は一読忘れがたい名品で、先生がお書きになっていられるように、わたしも読み返すたびに胸を熱くさせられます。最後に先生が記された次のひと言にも共感と同感を禁じ得ません。
「この小娘の一途な、必死の「生」の姿こそ、漱石、龍之介、そしてその子孫たるわれわれ「近代人」が無益無謀な「進歩幻想」の果てに忘れ去っていたものなのだ。」
ありようはそういうことだと思います。一途な、必死の「生」の姿が見失われて久しい時代、まさしく「乏しき時代」に、われわれはただただ呆然と、あるいは四六時中せわしなく、餓鬼か幽鬼のように生きています。
龍之介自身がおのれの日常を鬱陶しいしがらみとともに生きていましたが、その魂の奥に、この小娘のひたむきな姿を髣髴とさせるような憧憬を宿していた人でした。
十年ぐらい前かと思いますが、友人がひと夏かけて龍之介全集を読んだという便りをくれました。その一週間後に、駅前の古書店の奥に龍之介全集が床に積み上げられているのを見て、即座に購入して宅急便で届けてもらいました。岩波の分厚い全集ですが新版が出るに当たって誰かが手放したものでしょう。龍之介にかぎらず全集、著作集が現今はおおむね廉価で出回っているのもご時世というものでしょうが、そのご時世なるものの正体が「無益無謀な進歩幻想」でしかありませんからね。
せめて心ある若い人々には、文学や芸術をとおして、人間の「一途ひたむきな生の姿」を見てほしいと願わずにはいられません。


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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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小娘と蜜柑 への4件のフィードバック

  1. 上出勝 のコメント:

    佐々木先生

    お久しぶりです。
    先生、相変わらずヒフンコウガイしてますね。
    私もですけど。。。

    私の方は暮れに脳梗塞で入院したり、糖尿病がわかったりと、イロイロありましたが、まずまず元気にやっております。
    体調の問題があって、今年は先月初めて南相馬でのボランティアに参加しましたが、本当の「復興」にはまだまだと思いました。
    片付けに入った家に1リットル入りの焼酎が48本ありました。その家のお父さん、糖尿病とのことですが、「おらは絶対酒はやめねえ」とのこと。どこにも似た人がいるものです。

    さて、私も芥川の『蜜柑』は大好きな作品です。
    もう20年以上も前ですが、歌人の俵万智さんが編集した『くだものだもの』と言う、くだものをテーマにした詩や小説のアンソロジーの中にこの作品が入っており、それで初めて読みました。他に、梶井基次郎の『檸檬』などがはいっていたと思います。
    芥川の中では「異質」で、芥川にこんな「健康的」な面があるのかと驚いた記憶があります。

    ところで、話が変わりますが、今年の4月から、私は「大学生」になりました。福祉系の大学の通信科なんですけど、4年生に編入させてもらえました。
    私の仕事は福祉と交差することが多く、前々から福祉を本格的に勉強したいと思っていました。そのうえ、両親の介護が現実の問題としてあり、いっそう勉強の必要を感じており、エイヤッと決断したわけです。
    通信科といっても昔のようなスクーリングはあまりなくて、インターネットを使ったオンデマンドの授業で、好きな時好きな場所で聴講ができます。私はもっぱら電車の中で聴講してます。

    それで、児童福祉論の勉強もしているのですが、いろいろなデータ等から、日本の子供の貧困がすさまじいものだということがよくわかります。マスコミ等でも報道されていますが、客観的な資料等からも日本の子供が置かれた状況はひどいものです。とても「先進国」とは言えません。
    この国は『蜜柑』の時代を乗り越え、戦後そこそこ平等な国を作り上げて来ました。しかし、私にはまた『蜜柑』の時代に戻って行くような気がします。
    銀のスプーンをくわえて生まれて来た世襲の政治家には『蜜柑』の子供たちのことなど想像もできないでしょうね。
    特にアベという幼稚で自己陶酔するだけの無学なとても総理の器とは思えないような(ヤジをとばした総理は歴史上彼以外にいないと思います)男がこの国を牛耳っているんですからね。。。。

    あ、アベのことを書いていると血圧が上がって来ました。まずい、また倒れるかも。そろそろこのへんで。
    ではまた。

    上出

  2. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    上出さん、お久しぶりです。ご病気なさっていたとのこと、大変でしたね。でももう全快でしょうか、良かったですね。それにしても福祉の勉強を始められたとのこと、これは掛け値なしに偉いです。介護をしていると、そこから現在の日本の病巣が見えてきます。このまま行ったらどうなるのでしょう。上出さんのように、そして不肖わたしのように、一人ひとりが身の回りを整えていく(自衛する)ことが先ず必要ではありますが、行政の適切な後押しがなければ根負けすることも確実です。両者の適切かつ効果的な組み合わせ・バランス…福祉論の難しいテーマでしょうが、頑張ってください。

  3. 阿部修義 のコメント:

     先生の『蜜柑』への書評を拝読して、モノディアロゴスで何度も繰り返して言われている言葉を思い出しました。

     「神は細部に宿りたもう」

     歴史的経験の浅いアメリカを模倣し、安定していた日本経済を異次元の金融緩和で円安を加速させ、他国の軍事的脅威を宣伝し安保法案を断行する、まさに強い側の論理に限定した現政権に欠けているものは、多方面に亘るバランス感覚だと私は感じています。世の中の目には見えないこのバランス(調和)感覚はどこから生まれるのかと考えていましたら、先生の書評の中から感じたもの、「細部へのこだわり」ではないかと。「進歩幻想」という現代社会の中で忘れてしまっているものはそのことであり、歴史的経験を敢えて真理と解釈すれば、まさに真理は「細部へのこだわり」の軌跡と言えるのではないかと私は感じます。

  4. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    阿部修義様
     いつも丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。慎太郎や晋三たちには「小さきもの」が見えないのでしょうね。最近聖書はめったに読まなくなりましたが、でもあの有名な言葉はこのことを言ってるんでしょうね。
    「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにし てくれたことなのである。」(「マタイ」25章45節)。

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