全国的な猛暑続きで、老人たちが何人か熱中症で死んだというニュースが報じられている。川口の娘からもさっそくこまめな水分補給の忠告が届いたところである。でもありがたいことに、こちらはまだそれほどの暑さは感じられなく、何とか持ちこたえている。
でも美子の髪が伸びて暑苦しそうなので、今朝入浴サービスの前に思い切って散髪(今風に言えばカッティング?)と白髪染めをしてやった。髪の毛を触られるのは嫌じゃないみたいで、おとなしくされるがままにしている。といってもここ数年、手足すら動かさないようになってはいるが。だから体温調節には気をつけてやらなければならない。
もともと心臓も胃腸も丈夫な性質(たち)なのがなによりもありがたい。二人暮らしになってから一度も風邪を引いてないし、お腹をこわすこともない。この夏も今までどおり無事乗り切ってくれるだろう。美子の元気に助けられたかたちで、私自身も持病のギックリ腰にこの数年なっていない。さすがにオシメ交換などのあとは腰が鉛のように重くなるが、椅子に座ってしばらくすれば元に戻る。
ところで本の整理の方は一つの山場を迎えている。つまりビーベス関係の本を整理しているうち、長い中断の前にビーベスに相当のめりこんでいたことを徐々に思い出してきたからだ。そしてこのままで死んでしまうのはなんとも悔しいと思い始めたのである。どこに発表するかなどとりあえずは考えず、我が人生の最後の課題として出来るところまでやってみよう、と思い始めたわけだ。
これまでも何度か折に触れて、とりわけ原発事故のあと、指摘してきたことだが、現代世界は大きな歴史の曲がり角に遭遇した十六世紀ヨーロッパ世界に酷似しており、エラスムスやビーベスなど当時のウマニスタたちの苦闘は、現代の私たちにもさまざま貴重な示唆を与えてくれそうだ。わが国には渡辺一夫というフランス・ユマニスム研究の偉大な先達がいるが、残念ながらビーベスについては、私が今まで読んだ限りでは一切言及していない。しかしオランダのエラスムスを筆頭に、フランスのビュデ、イギリスのトマス・モアと並んでスペインのビーベスが当時から、いわば人文学思想の四巨頭と言われてきたことは間違いない史実である。渡辺ユマニスム研究にビーベスが完全に欠落していることは実に不思議としか言いようがない。たとえば『フランス・ユマニスムの成立』(岩波全書、1976年)の詳細な索引にもまったく載っていない。
ただ渡辺一夫は、先日も紹介したように、例えばロヨラのイグナチオを反(本当は対抗)宗教改革の巨魁といったステレオタイプの見方を早くから抜け出ていた。渡辺一夫のユマニスム研究の優れているところは、単なる学説史という狭い見方をせず、彼自身の生きている現代、とりわけあの愚かな戦争に突入していった日本、そして敗戦によっても根本的な覚醒をせずにここまできた日本という地場を一歩も離れずに、つまりそこを基点として、思索を展開したことである。
他の分野はいざ知らず、人文学(ユマニスム)が他ならぬヒューマン(人間であること)の学であるからそれが当然のことなのだが、とかく学者という人種は抽象的な学説史の迷路にはまり込んで、研究者自身の生から離脱する傾向がある。簡単に言えば、というかきれいごとを言えば、客観性の誘惑から抜け出せないのだ。
もっと具体的に言うと、下手をすればビーベス研究の基本文献を博捜するならまだしも、文献学史のぬかるみに足をすくわれる危険が常にあるということである。例えば大学や研究室での研究形態は、まず従来の研究史の穴場を見つけることから始めるのが通常だろう。そうでもしなければいわゆる学界での評価が期待できないから、つまり業績として認められないから、というわけだ。その点、大学からも研究室からも離れて孤軍奮闘しなければならない私のような研究者は、逆にそれが強味になる。
ところで先だって何十年も前の書き物をまとめた『スペイン文化入門』の「まえがき」にあえて書かなかったことが一つある。つまり早くは1970年代に書いたものが今でもある程度の価値があることを発見(?)したのは、他の分野、特に日本文化についての優れた論考がいろんな人たちによって既に1970年から遅くも1990年頃までには書かれていたということである。つまりそれなら私の場合も、と改めて自信を持ったわけだ。
今日もそういう目で、既に呑空庵で作っていた『内側からビーベスを求めて』を読み始めたところだ。『スペイン文化入門』の場合と同じく、これまで読み直したこともなかったのだが、(そろそろ例のエゴラトリーアが始まったぞ)、これがなかなかいい。少なくともビーベス研究の基本構造、つまりなぜ今さら日本人の私が敢えてビーベス研究を志すのか、そのことがしっかり自覚されたものになっているということである。
この私家本には、大学紀要に連載した四つの論考が収められているが、言うまでもなく未完のまま長らく放置されていた。先ずはそれらをゆっくり読み直してから、今後の方向を決めてゆくことであろう。ユダヤ系という出自を背負って、若いときから国外、主にブルージュやルーヴァン、さらにはイギリスへと渡り歩かなければならなかった彼の個人史にこれまでかなりの紙幅を使わなければならなかったが、今後の予想としては、エラスムスとはまた違った角度から展開した彼の平和論を中心に攻めていくことになろう。
そしてこれも何度か言及してきたことだが、スペインのウマニスモが他のものと決定的に異なるのは、スペインが新世界問題と四つに取り組まなければならなかったことから来る、人文思想の質的変化そして深化である。ビーベス自身はラス・カサスやビトリアなどのように直接その問題にかかわってはいないが、彼ら一世代先輩の思想家たちの動向を射程内に捉えていたはずで、先ずはそこらあたりを探ってみたいと考えている。
今度の蔵書探索の過程で、ビーベス研究のために新たに文献を求める必要のないことが判明した。あとはじっくりあせらず手持ちの文献を読み進めるだけ。さあ忙しくなってきたぞ。そうそう言い忘れるところだったが、先日紹介した『ビーベスの妹』はかつてビーベス研究にのめりこんでいる時に、ふと思いついた「仕掛け」だったことを今回やっと思い出した。つまり故郷バレンシアで家族がフダイサンテ(隠れユダヤ教徒)の嫌疑を受けて焚刑に処せられるなどのことがあったにもかかわらず、というよりそれが為になおさら故国に帰ることが出来なかった彼の悲劇の生涯、それらすべてをいわば行間に埋めての彼の著作活動であったことに触発されての創作だったのである。
つまり、これもこれまで再三言ってきたことだが、ある人の生涯を辿る際、最も大事なことは、文字や作品に表現されていない部分をていねいに読み取るということだ。私家本の表題の意味もそれである。そのためには、時にはフィクションに限りなく近くなるほどの想像力を駆使しなければならない。
そういえば今日見つけ出した本の中に、『行間のビーベス(Vives entre lineas)』(A. Gomez-Hortiguela, Bankaixa, 1993)というのがあった。著者は1955年生まれとあるから、私よりはるかに若い研究者だが、私と同じような考え方をしているらしい。彼には邦訳『ルイス・ビーベス』(木下登訳、全国書籍出版、1994年)があるが、まだ読んでいなかった。これを機会に読んでみようか。いや読まない方がいいだろう。私のビーベス像を作るには、先ず私自身が書いたもの、次いで彼自身の書いたものをしっかり読み直すことだ。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
我が舎弟のひとり菅さんから以下のようなメールが届きました。皆さんの現在の心境を代表していると思いますので、彼に断り無く以下にコピーします。
【日本国滅亡記念日】
驕り高ぶる安倍晋三率いる自民与党の強行採決ニュースを聞きました。戦後70年、戦争廃棄を掲げて来た先人達の尊い努力が、後ろ足で砂をかけるような安倍の愚行によって瞬時の内に破壊されました。世界大戦A級戦犯のDNAを受け継ぐ安倍に、日本は滅茶苦茶になると言うのに、若者達は立ち上がるでも無く、無関心の様相。今が昭和40年前半なら学生運動の2つや3つ起きて、安倍などは暗殺されかかっていたでしょう。しかし草食系で政治に関心の無い平和ボケの平成生まれには何処吹く風〓砲弾が飛び交い、焼け野原になって気が付くのでしょうか? 世も末です。
※貞房のコメント
お怒りはもっともですが、でもいろいろな大学で教職員だけでなく学生も反対の意思表示を始めているようです。さらに運動が広がってゆくことを期待し祈ってます。
佐々木先生
今、国会前にいるんですけど、若い人いっぱいいます。
seald’sという学生グループにカンパしました。
たった1000円ですけど。ケチなんです。
今、沖縄選出の議員が挨拶しているところです。
先生、「京大有志の会」の声明がネットで評判になっています。なかなかいいですよ。
昨日は6万人集まったそうです。今宵も続々人が集まっています。
上出さん
私の分も頑張ってください!ありがとう、ありがとう!
風邪を引かないように!
「京大有志の会」の声明、探してみます。
いま見つけて読みました。素晴らしい声明文、まるで詩です。感動してメッセージを書き込みました。