14. ビーベスの妹 (1995年)



ビーベスの妹

 
 国連大学でのパネル・ディスカッション「サラマンカ大学の現在と未来」が終わった。壇上に向けられていたスポット・ライトが消え、会場全体に柔らかな光が広がる。いささか広すぎる会場をほどよく埋めた聴衆の何人かが、立ち上がって背伸びする姿が見える。聴衆の半数近くは在日スペイン人のようだ。あるいはラテン・アメリカ人も混じっているか。左上方の同時通訳のブースにも人の動きがあった。ともかく無事に終わってほっとした。十日ほど前の打合せのおり(そのときは日本側パネラーだけの集まりだったが)元駐スペイン日本大使のH氏が冗談混じりに予想した通り(彼らには、パネル・ディスカッションより、その後のパーティーの方が大事だということ)、司会者を入れると八人ものパネラーによるスピーチに時間が食われ、もはや討議の時間は残されていなかった。もちろん司会者による総括はあったが、階下に用意されているパーティーの時間に食い込んでまでの討議は許されないわけだ。いかにもスペイン的なメサ・レドンダ(円卓会議)ではある。両隣のパネラーに軽く会釈して立ち上がったとき、先ほど司会者から県会議長だと紹介された若い大柄の男が近づいてきて、お礼の言葉とともに記念品らしきものが手渡された。サラマンカ地方特産の小さな銀細工品と(ネクタイピンのようだ)、サンティリャーナ侯爵の詩集初版本冒頭の色刷りファクシミリだった。
 ところが彼は、とつぜん思い出したかのように、上着のポケットから一通の封筒を取り出した。これをある人からあなたに渡して欲しいと頼まれた、と言う。「ある人」を説明する言葉があったが、よく聞き取れなかった。「図書館」という言葉があったように思えるが自信はない。ただその時は、面倒臭い挨拶などは遠慮して、一刻も早くその場を逃げ出したい気持ちだったから、特に聞き返すこともしなかった。サラマンカ大学に留学しているかつての教え子の誰かが言付けたもの、ぐらいに思っていた。
 だいたい今回の企画そのものの意味がいまひとつ分からなかった。スペインの、名門とはいえ一地方の大学が、県全体の音頭をとって何を目的として日本に進出しようとしているのか。いや、そもそも進出しようとしているのかどうか。バブルのはじけた今の日本への経済進出はリスクが大きいだろうし、かといってアメリカの大学のように日本分校を作ろうとしているのでもなさそうだ。用意されたパンフレットを何度読んでもその点がはっきりしない。サラマンカ料理を調理するコックまで引き連れての一行と聞いた。他人事ながら心配になってくる。若い、やり手らしい総長(専門は刑法らしい)の演説を聞くかぎり、人文学の守り手としてのサラマンカ大学の名声は名声として、どうもアメリカの大学なみにハイテク産業をも視界に入れての現代化をはかっているらしい。とすると、愚直なまでにスペイン・ヒューマニズムの旗手たるべし、という当方のスピーチも、こちらは応援演説のつもりだったが、彼らにとってはむしろ有り難迷惑だったのかも知れない。ま、そんなことはどうでもいい。

 郊外へと向かう帰りの電車の中で、渡された手紙のことを思いだし、ポケットから出してみる。表にはプロフェッソール・***とあり、裏を返すとエル・キンタマ・デ・リスボアとある。キンタナというスペインの人名はあるが、キンタマはないだろう。しかしそのとき頭の中で何かがはじけた。そうだ、彼だ! 二〇年近く前の、やはり夜のリスボン郊外の坂道がよみがえってきた。マドリード大学で美術史の勉強をしていたO氏の運転する車でマドリードを出発し、コンキスタドールの生地やローマ時代の遺跡の散在するエストレマドゥーラ地方のどこかの町で一泊して(それがどこの町だったか完全に記憶から消えている)国境を越え、サラザール橋を渡ってリスボンに着いたころは夜になっていた。住所を書いた紙片をたよりに、リスボンでの宿を約束してくれている一人のウルグアイ人の下宿を探さなければならないのだ。彼は同行のK教授が(つまり総勢三人の旅だった)その昔マドリード大学に留学していたころ、学生寮で二年ほど同室した人だった。しかし名前がどうしても出てこない。確かファースト・ネームはローマ人のような名前だったと思うが。
 手紙の主の見当がついたことで胸のつかえが下りたが、しかしその彼が何を言ってきたのだろうか。今度はそれが気になってきた。だが網棚に置いたバッグから老眼鏡を取り出すのも面倒だ。タイプで打った四、五枚ほどの便箋が入っているが、読むのは帰宅してからにしよう。吊り革にぶらさがって、窓外を流れる雨に濡れた夜の街を眺めながら記憶の中をまさぐる。
 そう、彼とはおよそ二〇年ほど前、正確に言うなら一九七四年の春、一月ばかりのスペイン滞在のおりに出会った。そのころちょうどサバティカルでマドリードにいたK教授とO氏に誘われて、O氏の車(フォルクスワーゲンの中古)でポルトガル美術の旅に同行したときである。(私自身は途中彼らと別れてサラマンカに寄る予定だった)。さんざん迷ったあげく彼の下宿を見つけたときは、もう夜もかなりふけていた。「ラ・ガビオータ」(鴎亭)という名の、ちょっと怪しい雰囲気の下宿屋だった。そこの主人は肉感的な、どこか退廃的な感じの中年女で、K教授はあとで、彼と彼女はできてるぜ、といやに確信めいた口調で断言した。彼のほかに下宿人がいたかどうかは知らないが、そこは下宿屋であると同時に、ときには泊まり客もとるペンションだったようだ。
 さて彼は、私がサラマンカ大学に届けるはずのスペイン語論文を、翌日から始めたトマールやブラガ(スペイン語では女性の下着を意味するとかでひとしきり冗談が続いたが、内容は思い出せない)への教会巡りの車の中で添削してくれた。しかも速射砲のように絶えずしゃべり続けながら。スペイン語で「コーニョ!」と言うところを、それが口癖なのか、それとも日本からの客に敬意を表してか、「キンタマ!」と連発した。しかし、ふと馬鹿話の嵐が凪いだ合間に、こちらが歌謡曲のカセットを聴こうとすると、「うるさい、こんな景色のいいところで雑音を出すな」などと急に怒り出すこともあった。長年一人暮らしを続けてきたことからくる偏屈な一面も持っていたわけだ。たしかその時は、ドイツの大学に新しい勤め口が見つかったので、数ヶ月後にはリスボンを離れると言っていた。おそらくその後も、何度か勤め先を変えて、今はサラマンカに羽を休めているのだろう。県会議長の説明の中に「図書館」という言葉があったようだが、もしかすると彼は教授としてではなく司書のような身分でサラマンカにいるのだろうか。
 帰宅後、さっそく手紙を開いてみた。一枚目は私宛の手紙らしい。四月十三日サラマンカ発信となっており、最後にアニバル・アバディエと署名されている。そうだ、ハンニバルという名前だったんだ。ローマ人ではなくカルタゴ人だ。

 「先日こちらの大学新聞で君が今度のシンポジウムにパネラーの一人として参加することを知った。にわかには思い出せなかったが、昔(もうはるか昔になってしまったね)もしかしてリスボンで会ったことのあるプロフェッソールではないか、日本人、女子大(名前はすっかり失念しているが)の先生、スペイン思想、ウナムーノの研究者、サラマンカ大学、もう間違いなく君のことだと確信した。どう、元気にしているかい? 僕の方は相変わらずバガブンド生活を続けている。三年程前から、ここサラマンカにいるが、そろそろ場所を変えたいと思っている(だから僕宛に手紙を出しても、宛先人不明になること間違いなし)。
 ところで君にいいものを上げたいと思う。君が最近スペイン十六世紀の思想を研究していることを知って、何かの役に立つかも知れないと思ったからだ。それは数少ない私の蔵書(なにせバガブンドの身分だから、棺ほどの大きさの革張りのトランクに入るだけの蔵書だが)の一冊の見返し部分に、カタルーニャ語混じりのスペイン語で書かれたもので、私の考えでは十六世紀、つまりこの本、トマス・モアの『ユートピア』初版本(一五一六年、バーゼル)と同時代の書き物だと思う。実はこれは先祖代々わが家に伝わってきた本で、ウルグアイの生家から持ち出したものだ。長い間だれの手になるメモか気にもかけなかった。むしろこれがなければ初版本としての値打ちが倍になっていたのに、と腹立たしい気持ちだったが、先だって、といってもここサラマンカではなく四年程前(このごろまったく時間の観念が混乱している)、ルーヴァン大学に勤めていたときだったが、思い立って読んでみた。
 小生の遠い先祖がその国に住んでいたという事情がそうさせたのかも知れない。昔風の書体なので読み下すのに苦労したが、長年自己流ながら古文書学をやってきたことが思わぬところで役に立った。字体から判断して間違いなく女の人、それもかなりの教育を受けた人の字であり、読んでもらえば分かるように、だれかの話をいわば聞き書き風に書き留めたもののようだ。「あの人」がだれか、私なりに推測しているが、しかしそれはあまりにも意外な人なので、私の口からはあえて言うまい。君自身が判断してほしい。ところでその文章をそのままコピーして送ろうとも思ったが、もしかして君が古文書を読むのに一苦労するといけないから(失礼!)、私が現代表記に改めて書き直したものを送ろうと思う。K教授とO氏(今はもうどこかの大学教授になっているだろうが)にも、ついでのおりによろしく伝えてくれたまえ。またどこかで機会あって会うときまで、アバヨ(バーレ!)」
 手紙はそこで終わっており、続いてその問題の文章が続いている。

 《あの人は、今日は短時間だがなんとかベッドの上で身体を起こして話をすることができた。マルガリータが途中部屋に入ってきたが、どこかおどおどしている。何かあったのだろうか。今日は懐かしそうにバレンシアでの少年時代の思い出を語ってくれた。フカル川での水遊びのことがとりわけ鮮明に記憶に残っているらしい。マルガリータの話だと、元気なころはよく運河沿いの散歩が好きだったらしい。ゼーブリュッヘへと通じる運河を眺めながらあの人は何を考えていたのだろう。地中海へと流れ下るフカル川の景色とは似てもにつかない暗い感じの運河なのに。父さんたちが、叔父さんたちに煽られないで、もう少し賢明に行動してくれていたら、私にも別の運動のしようがあったんだが、と言う。話はいつも家族の不幸の回りを離れない。世の中には人間的才覚によってはどうしようもないことがあるんだから、となぐさめを言ってみるが、あの人の暗い顔は晴れない。》 
 《寝込むようになる三日前に書き終えた原稿の山がベッド脇の小机の上にのっていた。疲れが出るからと、先日マルガリータが隠したとかで、珍しく兄夫婦のあいだでいさかいがあった問題の原稿だ。キリスト教信仰の真実性をめぐっての大部の作品らしい。
 彼はこう言った。後世は、たぶん自分のことを正統キリスト教に連なる思想家と評価するだろう。しかし正統とは何だろう。宗教の違いから起こる争いの何と醜悪なことか。自分はあらゆる機会に、世の君主たちに戦争の愚かさを説いてきたが、それもすべて無駄に終わった。彼らはどうしても戦争がしたいらしい。どこか巨大な競技場に彼ら戦争屋を集めて、とことん戦わせたら、と思うことがある。ローマの競技場で闘う剣闘士の方がまだしも人間的である。》
 《また別の日。ロッテルダムの人との確執を世人は噂していたが、しかしそんなものは両者のあいだにはなかった。私の出自のことを彼は承知しており(あの持前の嗅覚で疾うの昔から知っていたらしい)、私が作品の中に両親のことを書くことに反対したことがあったが、それは世間が噂したように、彼自身の不幸な生い立ちからくるやっかみなどではなかった。むしろその反対に、家族に関するデータを残すことで、ユダヤ系出自が知られることを本気で心配していたみたいだ。》
 《また別の日。もう十年以上も前のことなのに、とつぜん訪ねてきたロヨラの巡礼者のことも強烈な印象として残っているらしい。今年に入ってから彼の噂がここブリュージュにもいくつか届いている。先日も、彼が創立した「イエズスの仲間」という修道会がローマで正式に認められたというニュースが流れた。そのときのあの人のコメント。私にとって、信仰はあくまで個人的なものであるが、ロヨラはそうは考えていないようだ。たぶん彼の言うことにも一理あるのだろう。どちらが正しい正しくないというより、究極的には二つの相異なる個性のようなものではなかろうか。私としては、終始一貫、単独者として立つ以外に道はないと考えている。》
 《世の終わりが来る前に、イスラム教やユダヤ教を奉じる者たちが、すべてキリスト教に改宗するなんてことが、果たしてあるんだろうか。だれかが本当にそんなことを信じているのだろうか。いや、今後世界の諸宗教が対立ではなく対話の時代を迎えようとも、キリスト教一色に地球が塗りつぶされることはないであろう。またおそらく神ご自身もそれを望んではいないのではないか。肌の色、言葉、文化が多様であることがどれほどすばらしいことか。宗教だって同じことではないか。》
 《あの人の持病の痛風が悪化しているようだが、しかしそれよりも生きる力そのものがずいぶんと弱まっている様子が痛々しい。今朝は、パリ遊学に旅立つ朝のことをとぎれとぎれに話してくれた。私はそのころまだ幼かったので、初めて知る話だ。親族の中から逮捕者が出始め、私たち家族もけっして安心できない状況の中で、長男をパリに送り出すことについては、父と母のあいだで何度も何度も検討されたらしい。親族のあいだに猛烈な反対意見があったのはもちろんだが、両親はそれを押し切った。商人には向いていない性格、バレンシアには、ひいてはスペインにはこの子の未来はない、というのがその理由であった。長男がユダヤの信仰から大きく逸脱することさえ覚悟したらしい。あの朝の、母の悲しそうな顔を忘れたことがないそうだ。》

 ここで文章はとうとつに終わっている。末尾に L. V とあるが、イニシャルだろうか。ともあれこれは間違いなくルイス・ビーベスに関わる文章である。しかも書き手は、もし「あの人」が「兄」と同一人物だとしたら、ルイス・ビーベスの妹ということになる。ビーベスの家系、その家族関係に関して今までほとんど知られていなかったが、最近、アンヘリーナ・ガルシアの研究によって、かなりの新事実が分かってきた。それによると、ビーベスには他に四人のきょうだいがいたらしい。そのうち長女イサベル・アンナは、一五二二年父とともに逮捕され、翌年獄中でぺストに感染して死に、ハイメも同年死んだことになっている。だから一五二四年九月に父が焚刑に処せられたあと、妹二人(レオノールとベアトリス)が残されたことになる。ビーベスは、当時メヘレンに住んでいた親友クラネベルト宛の手紙で、これら妹たちのことをしきりに心配しており、自分のところに呼び寄せたいと書いている。とすると結局彼女たちは、ユダヤ系スペイン人たちのコロニーのあったフランドル地方に無事亡命できたのであろうか。もしそうだとすると、L. V はレオノール・ビーベスのことである。ところで五人のきょうだいの長幼の順序がはっきりしているわけではない。しかしクラネベルト宛の書簡で、「僕の三人の女のきょうだいは、まだ年端もいかないのに貧しさの中に取り残されてしまいました」とあるから、順当に考えれば妹たちということになる。
 ただし、父の処刑に関して、この親友に対してさえ「祖父」と言い換え、しかも異端審問による処刑とはおくびにも出していないなどのことを考えると、「年端もいかない」という表現をにわかに信じるわけにはいかないが。
 さてビーベスの妹のものらしき書き物が手に入ったのは以上のような経緯である。ここ数年間のまるで真空の中での作業のような私のビーベス研究も、これによってにわかに緊迫したものになってきた。しかしもしこれが本物だとしたら、なぜアニバル自身がこれを公表しないのだろう。一九六四年にビーベス一家の異端審問記録が発見されたとき以来の大発見ではないのか。しかも今度のものは、ユダヤ系出自のことを一切秘密にしていたビーベスが、死を前にして初めてそれに触れ、かつ内心を吐露したものであり、今後のビーベス研究にとって画期的な資料となるはずのものではないか。もしかして、エル・キンタマ氏は、すでにどこかで論文を発表しているのであろうか。そう考えているとき、すっかり忘れていたあることをとつぜん思い出した。そうだ、あのときリスボンで、彼の書いた論文の抜き刷りを一部もらったはずだ。たしか十八世紀ベネズエラに生まれ、のちチリのサンティアゴ大学を創設した人文学者アンドレス・ベーリョについての論文である。
 それから数日のあいだ、自宅と勤め先の研究室での大捜索が始まった。タイトルが赤い活字で印刷されていたことまで覚えているのに、どうしても見つからない。失せ物が見つからないことほど気になることはない。しかも探し疲れてもうあきらめたころに、思いもよらないところから出てくるのもいつもの通りである。そして今日の午後、とうとうそれが見つかった。何度も見たはずの本棚の、電気製品などの仕様書を入れたファイルの中に紛れこんでいたのだ。やはりアンドレス・ベーリョについての論文だった。赤い活字で「アンドレス・ベーリョ(一七八一-一八六五)を想起しつつ」というタイトルである。そして著者名としてアニバル・アバディエ・クラネベルトとある。先日の手紙では省略されていた母方の姓も加えたフルネームである。そしてそのとき、がつんと頭を一撃されたようなショックを受けた。クラネベルト! 終生ビーベスの良き友であり続けたあのクラネベルトと同じ名前。

 たしかアニバルは、先祖がフランドル出身だと言っていなかっただろうか。つまり彼の母方の先祖のことだ。二年前、ビーベスとクラネベルトとのあいだに交わされた書簡について論文を書いたときに、どうしても解けなかった謎がこれで一気に氷解する。つまりあのとき、ビーベスの相手方に対する挨拶の言葉が、途中から妙なぐあいに変化したことの意味が解けるのだ。
 一五二四年から二七年にかけて何かが起こったようである。二四年の六月ごろビーベスは、彼のフランドル滞在の最初から彼の下宿先の主人でもあり、彼の身元引受人でもあったベルナルド・バルダウラの娘マルガリータと結婚。そして九月には、故郷バレンシアでの父の処刑という悲劇が起こる。そしておそらくその後まもなく、レオノールとベアトリスの二人の妹が命からがらスペインを脱出し、ビーベスのもとに逃げてきたのではないか。二五年六月のビーベスからクラネベルト宛の書簡には、クラネベルト夫人の病気恢復を喜んでいるとの挨拶があるが、どうも夫人は病弱だったらしい。同年七月の手紙には、夫人不在について触れ、彼女のきつい性格のことが仄めかされている。ところが二六年四月の手紙の末尾の挨拶文から少し雰囲気が変わってくる。すなわち「この上なく完全な健康に値する素晴らしい奥方によろしく」となり、そして同年九月の末尾挨拶に謎めいた文章が登場する。「僕の家のみんなから、貴兄の家のみんなに、貴兄ならびに僕の妹、貴兄のすぐれたパートナーに」という言葉である。以後、ビーベスはクラネベルトへの手紙の末尾に必ず「貴兄の奥さんにして僕の妹」という表現が続く。資料によるとクラネベルトは一四八五年生まれ、つまりビーベスより七歳年長である。たとえ夫人がビーベスより若いとしても、先輩の奥さんを「僕の妹」などと呼ぶであろうか。今のところ確認しようのないまったくの仮定だが、クラネベルト夫人が病死するなどして鰥夫になったクラネベルトのところに、ビーベスの妹のレオノールが後妻に入ったのではないか。さらに二七年十月のビーベスの手紙の末尾には、「貴兄の奥さんにして僕の妹がみごと安産でありますように」とある。ビーベスとマルガリータ夫婦のあいだに子供は恵まれなかったようだが、しかしもしレオノールがクラネベルト夫人だとすれば、少なくともビーベス一家の血を引く子孫がこの時点で誕生したことになる。そしてその血は、あのアニバルに引き継がれている!
 アニバルはその事実に気づいているのであろうか。さっそくサラマンカに手紙を書くことを考えたが、しかし彼がまだそこにいるという保証はどこにもない。手紙にも書いているように、彼はまたまたバガブンド生活に戻るようだ。かつてのビーベスのように、ヨーロッパ中の大学を渡り歩く人種が今も存在しているのであろう。日本とは違う、学問世界の奥の深さのようなものがヨーロッパには健在らしい。
 いや、そんなことよりもっと根本的な疑問がある。つまり彼が現代表記に直してタイプしてくれた文章が、果たして実際に存在するものなのかどうか、という問題である。モアの初版本ということなら、クラネベルトがモアとも親交があったからありうることではある。また彼とビーベスとの関係がたんなる親友の域を越えたもの、つまりビーベスの妹と再婚して義理のきょうだいとなったかも知れないということについては、彼がビーベスの死後、絶筆となった『キリスト教信仰の真実性について』の出版のために奔走し、時の教皇パウロ三世に献上の書簡を書いていることなどを考え合わせるなら、あながち不自然な話ではない。というより、じゅうぶんありうる話である。しかし、もしそうであるなら、ユダヤ系出自という問題は今度はクラネベルト家の秘密ともなったはずだ。人目に触れやすい初版本の見返しに一家の秘密をさらすはずは絶対にない。
 それならこれはアニバル一流のジョークで、真面目な東洋の研究者をかついだもの、つまり彼のまったくの創作なのであろうか。リスボンで彼と別れたあとのK教授の話だと、アニバルはウルグアイの名門の出で、モンテビデオの大学で教え始めたが、父親の政治的失脚か何かで故国を出なければならなかったらしい。寮生時代の彼の奇行の数々もそのとき聞いた。一カ所に定住できない性格や時には奇矯な行動に走る性向などは、彼の血の中を流れる、暗く激しい何かのなせるものであり、おそらく彼自身それをもてあましていたのではないか。つまり言いたいのは、彼の人柄から判断して、文書の存在そのものが創作であるとは考えにくい、ということだ。トマス・モア『ユートピア』初版本というのは、おそらく「真面目な東洋の研究者」が正解に至るためのヒントに過ぎないのではないか。真相は、彼の家に代々伝わってきた古文書か何かの一部ではないのか。

 死後四百年経ってようやくビーベスの血筋にまつわる秘密は秘密でなくなった。しかしビーベスの妹が親友クラネベルトと結婚し、子供をもうけたことについては、だれも知らないし、どこにも言及されたことはない。ここはだれかビーベスその人に関心をもっている人に、それも目端が利くスペインの学者たちにではなく、確実に三十年の遅れでちんたらついてくる「真面目な東洋の研究者」にそれとなくヒントを授け、あとは運を天にまかせようか、とビーベス家の血筋に連なるアニバルが考えたとしたらどうだろう。
 文字に記されたものは、たとえ何世紀を経ようとも、またどのような場所に隠されていようとも、いつか必ず見つけだされる。あのアニバルなら、それぐらいスケールの大きい冗談を考えつくのではないか。


『青銅時代』、第三十七号、一九九五年



補注 スペイン思想の中のサラマンカ

 時間が限られていますので、ここでは私自身がスぺインの思想 ・文化から何を学び取ってきたか、について簡単にお話したいと思います。結局それは日本の近代思想には欠落していたもの、つまり思想の風土性ということになりそうです。たとえばウナムーノの思想は風景をその半身(la otra mitad)としています。彼の思想には「高い塔の林」(alto soto de torres)と「黄金色の石」(de piedras doradas)の町サラマンカが、そしてカスティーリャの空と大地が、その光と匂いまでが感じられます。ここで言う「風景」は、ウナムーノと共に現代スぺイン思想の骨格を作り上げたオルテガの「私は私と私の環境である」(Yo soy yo y mi circunstancia)のその「環境」と言い換えてもいいと思いますが、思想に限らず広くスぺイン文化そのものが、この「環境性」を重要な構成要素にしている。換言すれば、個別姓と普遍性が共存している、決して個別性が失われることなく普遍性が求められている、あるいは肉体性が放棄されることなく精神性が追求されている。それはカール・フォスラー(Karl Vossler)の「スぺイン人は天と地を同じキャンパスの上に描きたがる」 (querer dibujar el cielo y la tierra en el mismo lienzo)という言葉とも符合します。それは聖テレサの神秘思想にも、また彼女の遺作を出版したルイス・デ・レオンの作品にも言えることです。サラマンカ大学教授であったレオンの代表作 『キリストの御名について』(“De los nombres de Cristo”)は、ラ・フレーチャ(La Flecha)の園抜きには考えられない作品です。
 ウナムーノから話は思わず黄金世紀へ遡ってしまいましたが、事実すべてのスぺイン文化の淵源が十六世紀スぺインにあります。そこにはイタリア・ルネッサンスよりもはるかに広い裾野と、さらに高く同時に深い内実を備えた文化が存在します。従来スぺインにルネッサンスはあったかとか、セルバンテスは人文主義の洗礼を受けたかとか、まるでスぺイン文化がイタリア・ルネッサンスの残照(reflejo)であるかのように語られることがありましたが、しかしそれはあまりにも謙虚に過ぎます。八世紀にも及ぶ国土回復運動を通じて、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教という三つの宗教・文化の共存と葛藤(conflicto)を経験したスぺイン文化は、独自の、しかも強力な光源を持つ文化です。そしてその中核には filología としての humanismo だけでなく antolopología としての humanismo、つまりまったく新しい人間像の創造がありました。しかしその確認作業には、従来のように個別に検証するだけではなく、ピカレスク小説から神秘思想にいたるスぺイン文化全体を再検討する必要があります。もちろんルイス・ビーベスなど亡命スぺイン人も射程に入れなければなりませんが、なかでも重要なのは、「新世界問題」に根底から取り組んだビトリアを頂点とするサラマンカ学派の存在です。だいいちアリストテレスの言う先天的奴隷(esclavos innatos)説を是認するものがどうしてヒューマニズムの名に値しましょう。十六世紀スぺインを全的景観(panorama)として捉え直すとき、J. マリタン(Jacques Maritain)の言う humanisme integral とはおそらく違った意味での humanismo integral hispánico が浮き彫りになるのではないでしょうか。
 日本におけるフランス・ユマニスム研究は、渡辺一夫と大江健三郎という二人の優れたユマニストを生みましたが、スぺインのウマニスモ研究も単にスぺイン研究という限られた領域にとどまらず、現代日本の精神状況と鋭く渡り合う、本当の意味での相互理解の道筋が作られるべきでしょう。その意味で、サラマンカ大学の責任は重大です。大学は、オルテガの言う 「時代の高さ」(la altura de tiempo) に立つべきですが、サラマンカは何よりもその高遭なウマニスモによって光り輝いてきたのですから。

        (一九九五年四月一七日、国連大学におけるシンポジウムでの発言草稿)

https://monodialogos.com/archives/12496