なーんて思わせぶりなタイトルを付けたが、なんてことはない、右のコメント欄をご覧になれば分かるように、言い出しっぺの私でさえ忘れていた平和菌誕生の日時を、いつもの通り阿部修義さんが見事探り出してくださったのだ。2003年2月16日というから、今回の豆本形式に進化するまで13年かかったことになる。ラマーズ式呼吸法なんてものまで持ち出して、平和菌産出法を伝授しようとしているが、もちろんこれは各自の自由に任せられるべきであろう。
ともあれ当時のままの文章をここに再掲載させていただく。なにかご参考になれば幸いである。
ペンは剣よりも弱し
テレビや新聞を見ると、ここに来て反戦の波が地球規模で広がっているようで、家の中でじっとしている私としては、涙が出るほど嬉しい。政治家や利権屋や評論家などより、民衆の方がずっとずっと目覚め成熟しているということであろう。そして調べたわけではないが、こうした同時多発的反戦運動の広がりにインターネットの普及が大きくかかわっていることにも疑問の余地がない。
参加しようにもデモそのものがない田舎に住んでいるから、などという言い訳はすまい。デモがあったとしてもたぶん参加しないかも知れぬ自分に対して忸怩たる思いはある。引け目といってもいい。それでなんとか他人や自分自身に対して申し開きをしようとする。時には開き直って、デモに参加するより自分は書くことによって、それなりに平和のために闘っているんだ、と。つまり「ペンは剣よりも強し」というわけだ。
でも正直に言おう、ペンはけっして剣より強くはないのだ、と。握りこぶしやナイフや、自動小銃やミサイルに比べるなら、これほど無力なものはない。だが……いや、やっぱり太刀打ちできない。しかしながら、それでもなお、したたかさにおいて拮抗する可能性はある。そして時限爆弾のように思いもかけぬときに、思いもかけぬ場所で、自ずと発火点に達して爆発し、それからは燎原の火のように一気にその力を発揮することもないわけではない。あるいは炭疽菌のように、便箋や古い書物の黄ばんだページの隅にじっと「その時」を待つこともある。この「平和菌」は、デモ参加者や活動家が疲れて眠っている時も、その増殖活動をやめることがない。自己嫌悪や無力感や、それでも消えない希望や期待から滲み出る「平和菌」は、いじいじしていて、断定口調で話すことはめったにない。いや、ないと言ってもいい。ウナムーノじゃないが、「平和、平和、平和」(スペイン語ではパス、パス、パス)と蛙のように連呼することの空しさを知っているからだ。
だから演台の上から「平和菌」をばら撒くより、さり気なく挨拶と用件の間にまぎれ込ませた方が効果的かも知れない。相手の目を見ながら正面切って渡すより、眼はあらぬ方を見ながら、すれ違いざま相手の胸元にすとんと落としてやる方がいいかも知れない。
要は、ラマーズ式呼吸法を習得しようとする妊婦のように、「平和菌」をひり出すための呼吸法を忍耐強く、不退転の決意で日々実践することである。
※右のコメント欄にも書きましたが、今日の「東京新聞」夕刊に佐藤直子記者の「平和菌の歌」についての嬉しい記事が出ているはずです(私は遠いところなのですぐには見れません)。お近くにあれば、ぜひご覧ください。
※※ ネットでも見れまーす。今日の「東京新聞」の「社会」の項目に「撒こう平和菌の歌」がありますのでそれをクリックしてください。
- 東京新聞夕刊 2016年3月23日
「撒こう 平和菌の歌」
fuji-teivoさま
東京新聞「撒こう平和菌の歌 再稼働への怒りをユーモアに変え」を拝読しました。
是非、平和菌の楽譜をいただきたく、よろしくお願いいたします。
なお、私も同じWordpressで、外観もTwentyTenの画面を使用しております。
佐々木先生
お久しぶりです。
今、代々木公園での反原発の大集会に来ております。
葛尾村で畜産業をしていた人が挨拶しているところです。自ら牛を処分した苦しさを切々と訴えておられます。
遅くなりましたが、豆本ありがとうございました。
ところで、私はどうも平和菌の「宿主」ではないかと最近思っています。生まれつきなんですかね。
ご苦労さん! そのうち反原発集会で「平和菌の歌」が大合唱される日を夢見てます。
夕、風呂で半分居眠りをし、その後二人(76才、79才)で、ワインとチーズ、猪苗代の純米吟醸と昼の残りの筍の煮物、ホウレンソウのおひたし、きゅうりの漬物を楽しみ、〆めは昨晩の残りのカレー、これがまた一段と美味くなっていた。なんという素晴らしい時間なのだろう。ふと、思った。あの時、フクシマでは、こうした日常が失われた、今も失われているのだ、と。
13年前のモノディアロゴスの表題「ペンは剣よりも弱し」の「弱し」は、私の個人的な考えでは、「勁し(つよし)」を先生は本当は使われたかったのではないかと思っています。小川国夫さんのことを漢字一字で表すと「勁」の人と言われ、弱さゆえの強さと言われていたのを覚えてます。文章の中にある「待つ」という言葉は受け身的な意味ですが、目標に達するまで待ち続ける信念は「勁」の人にこそ備わっているものだと私は思います。「平和菌」という言葉に先生が込められた思いを、なぜか今朝の「こころの時代」で渡辺和子さんが学長を勤められている大学に掲げられている河野進さんの詩に共鳴するものがあるように私は感じます。
天の父様
どんな不幸を吸っても
はく息は感謝でありますように
すべては恵みの呼吸ですから