ボヤキ三題

詳しく見てたわけではないが、テレビのニュースで、生徒児童に勉学をうながすスマホ(?)用のアプリ(?)が開発されたそうだ。あゝそう、といった感じで見ていたが、しかし後から考えてだんだん腹が立ってきた。どうもこれは、子供たちが勉強しなくなってきたとのクレームが出る前に、いいとこ見せようとしたのとちゃう?
 なんと良心的だこと、と最初は感心する向きもあろうが、要するにそれだけ子供たちの生活にケータイだかスマホだかが(私にはいまだにその違いが分からない)深く食い込んでいるということで、考えるまでもなくそのこと自体恐ろしい事態なのだ。つまり親の領域にまでスマホが割り込んできているということ。そのうち親に代わって子に説教を垂れるスマホが登場するだろう。誰がたくらんでいるのか分からないが(誰が、というよりこれまで再三警告してきたように、広く言えば〈近代病〉、もっと具体的に言えば進歩・発展幻想)、こうして人々は徐々に機械に支配されていく。つまり自身ロボット化していくわけだ。
 以前から書いたり言ったりしてきたことだが、長い目で見れば、これは原発事故で飛散した放射線よりも恐ろしい。なぜなら体を蝕まないかも知れないが、もっと内面の精神を蝕むからだ。
 ところで「…ちゃん! お使いに行ってこー!」とか「…ちゃん! も少しで父ちゃんかえってくっからそろそろ風呂炊いとけよー!」という母ちゃんの命令に、「いま勉強してるのーっ」などという言い訳が効くのは最近のことで、昔は決して勉強が言い訳になんぞになりませんでした。だから見なさい、二宮金次郎さんは薪を背負いながら本を読んどった。以前にも紹介したが、ゲーテは『伊太利紀行』の中で、よちよち歩きの幼児までが家計の助けにと木っ端集めをしてるナポリの光景に感動してました。
 誤解してもらいたかないが、私は何も国粋主義者のように修身を復活させよなどと言っているのでもないし、貧困を称賛してるわけでもない。言いたいのは現代日本はNTTやKDDI(両社の関係も良く分からんとです)、そして任天堂などの、知能指数は高いかも知れないが人間的には単細胞の開発業者によって支配されているも同然だということ
 ちょっと下品な言葉だが、ほんとそのうちそうした業者たちに「ケツの毛までむしり取られ」ますぜ。喜劇的いや悲劇的なのは、ケツの毛までむしられているのに、その自覚症状がないことだ
 風呂で思い出しました。昔はどんな家でも風呂は木や石炭で沸かしてました。だから私など、中学生のころまで月に二度くらい、兄貴と近所の材木屋さんとか工場(確か箸工場がありました)にリヤカーでバタ材をもらいに行ったものです。あらバタ材ご存じない? バタ材とは丸太を製材したときに出る一番端の、皮が付いたままの状態の板です。工場などからそれを安く分けもらったものです。その頃の風呂は故障など無縁でした。
 ところが今ではすべてガスや石油や電気の給湯器で、焚口で薪をくべなくとも全自動です。でもいまの電化製品すべてと同じく、故障するともうお手上げです。実は我が家の給湯器も最近ひんぱんに故障するようになって、その度に福島市から修理人に来てもらってます。三日前ほど前もお湯の出が悪くなって修理を頼んだのですが、その人は修理のたびに出張費や技術料をいただくのはシステムだから仕方がないけど心苦しい、そろそろ買い替えた方がいいですよ、と勧めてくれました。どんな製品でも10年から12年でガタが来るそうです。
 ガタが来ないような製品をなぜ作らないか、ですって? 適当にガタが来るように作らなければ商売にならないからですよ。お役所もその辺のことは了解済み、というか当然のこととして認めているようです。なぜって国民より国の発展が大事なんですから。こうしたカラクリを天野祐吉さんが『成長から成熟へ――さよなら経済大国』(集英社新書、2013年)の中ですっぱ抜いてますが、ともかく職人気質は遠い過去のことで、いまどきは便利で多機能の製品を作ることにかけては冠たる日本ですが、堅牢さに関しては昔の比ではありません。
 最後のボヤキ。先日クリニックでのいつもの検診で、糖尿病の方の数値は落ち着いてますが、今回はちょっと血圧が高いです、と言われた。そんなことを言われたのは初めてなのでびっくりしましたが、ただなぜ血圧が高かったのかは説明がつく。クリニックに行く前に例の au でケータイ買い替えのことなどで興奮したまま駆け付けたからだ。でも気にはなった。それでアマゾンで安いデジタル血圧計を調べてみた。上腕に巻くやつと手首に巻くやつと二通りあるらしく、値段もピンからキリまで。見てるうちに疲れてきて、同時に馬鹿らしくなってきた。これは放射線の線量計と同じで、気にし始めると止め処(ど)がなくなるぞ、と分かってきたからだ。もともと血圧はいろんな要因で高くなったり低くなったりしているもん。それをいちいち気にしてチェックしてたらどうなる?
 人間の体、注意してればいろんな信号を出している。今でも思い出すと怖くなるのは、こちらに越してきて間もないころ、後頭部から首筋にかけてやけに痒くなり、それを掻いてたら膿疱状態になり、しばらくティッシュを当ててたら、まるでジャングルを逃げ回る敗残兵みたいで、さすがに怖くなった。それでクリニックに行く気になり、そこで初めて自分が糖尿病になっていたことを知った次第。もちろんこれでは遅すぎ。痒くなった時にすぐ医者に診てもらうべきだった。要は注意してやれば、体はきちんとシグナルを出しているということだ。
 特にこの歳になって、長らくご苦労をかけてきた愚かな兄弟(中世の聖者たちは自分の肉体をそう呼んだ)を大事に労わってやれば、それなりにいろいろ教えてくれるはずだ。だから…デジタル血圧計は買わないことにした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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