今朝のデジタル版朝日新聞によれば、トランプはキューバのフィデル・カストロ氏逝去に際して「残忍な独裁者が死去した」と論評したそうだ。現大統領オバマさん(と一応敬意を表して)が生前のカストロ氏と会談し、アメリカとキューバの積年の対立関係が良好なそれへと一歩進んだばかりだというのに、これでまた先行きが怪しくなってきた。
先の大統領選の集計結果に疑念が生じ、いくつかの選挙区では再集計が進められるそうだが、その話は別としても、安倍首相はまだ正式に就任してもいないトランプに、首脳としては「いの一番」に会見した、しかもトランプ・タワーに親しく招かれて、と自慢げに吹聴したが、ちょっと早まってませんか。会談後トランプのことを「信頼することのできる指導者であると確信した」と語ったようだが、その会見の直後、トランプはTPP離脱をはっきり言明することで、安倍首相が思い描いた「信頼関係」が早くもコケにされたのは、なんとも滑稽というか哀れである。
トランプ・安倍会談についての報道を逐一チェックしたわけではないが、在任期間が来年一月まである現職大統領のお膝元で、こうしたトランプ会見の先陣争いをした安倍首相の、いかにもカッコマン躍如たる姿を誰も批判しないのはどうもおかしい。だいいち現職大統領に対して失礼ではなかろうか。従来の日本の政治家たちが外国外交団との折衝の後、握手した手がとても温かった、交渉の進展を確信できた、などと「お人よし」ぶりを発揮してきたことは伝説的な笑い話と化しているが、安倍首相の「調子こいた軽さ」は日本外交の弱点を見事に継承している。
カストロ氏の対米強硬姿勢が、多くの亡命者を生み出したことは否定できないし弁護する気もないが、しかし強大無敵の大国アメリカの裏庭(メキシコが不当にもそう蔑称されるが、キューバとて同じ)みたいな弱小国で社会主義的理想を追求しようとすれば、彼に抵抗する富裕者層からの反感を買うのも無理からぬことでもあった。一時期、カストロとその盟友チェ・ゲバラの名は社会変革を夢想する世界の若者たちの間で一種神秘の光暈に包まれていたが、私が上智でスペイン語を習い始めた時の教師の一人チリノ神学生(のち山口教会などで司牧したあと帰天)が母国キューバでカストロ氏と高校時代の同級生だったこともあって、彼に親近感を抱いたことなど懐かしく思い出される。
五年間の修道生活を切り上げて(?)南相馬に帰っていく私に、下級生の一人Nさん(さて彼は今何をしてるのだろうか)が、サイン帳か何かに(いまもどこかに残っているはずだ)私のことを「野に下るチェ・ゲバラ」になぞらえてくれたことも懐かしく思い起こされる。
それはともかく、トランプ大統領就任によって、世界は多くの不安定要素を抱え込むであろうことだけは間違いない。「軽い乗り」のアベノ〇〇マロには、とてもとても手に負えない難局が待っている。おのおの方、油断召さるな。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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「野に下るチェ・ゲバラ」と評された先生は、南相馬に戻り、そこでパートナーと出会い、共に「ダニエル・ベリガン神父」の著作を翻訳されたのですね。上智のお仲間にとっては、先生のとった行動、決断は突飛な(失礼)ことのように感じられたのかもしれません。でも、一方では、その深い思索と自由を謳歌できる行動力に、羨望のまなざしが向けられたのではないでしょうか。そして、今、南相馬に、先生はしっかりと生きていらっしゃる。感謝。
漠然とですが、1967年が先生にとって非常に意味のある年だったんだと文章の中の「ゲバラ」という名前を見ていて感じました。そんなことを思って、『宗教と文学』にある「1967年夏」を読み返していました。先生が環俗(私は先生を知るまでは知らなかった言葉)された一つの理由は島尾敏雄氏の文学にふれられたことだと先生ご自身が言われています。しかし、それが直接的な理由でないにしても、その年の10月にゲバラが銃殺されていることにも何らかの精神的作用があったのではないかと佐々木あずささんのコメントを拝読していて感じました。一歩踏み込んで言えば、ゲバラは先生にとってはドン・キホーテだったのかも知れません。
パフォーマンスだけの安倍、トランプ会談と今後の日米間の関係性を考えると、先生が言われるとおり、「多くの不安定要素」と「手に負えない難局」が待っているように私も思います。ゲバラがこんなことを言ってます。
「どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人達が立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!」
阿部修義様
人は縦横に張り巡らされた様々な糸の上を生きているのですね。歩いているその時はほとんど気づかない、また人によっては後になっても私のように他人に指摘されるまでは気づかない不思議な出会いやら出来事に織りなされて生きているのですね。
ダニエル・ベリガンとその仲間たちが徴兵カードを焼却して逮捕・投獄されたのが1968年、そしてその年、彼の作品を訳し始めた私たち二人が結婚したことは先日立野さんや佐々木あずささんに指摘されて初めて気づきました。そして今度は阿部さんに指摘されて、その前年(1967年)の十月、チェ・ゲバラがボリビア政府軍に捕らえられて銃殺され、私はその翌月、五年間の修道生活から還俗して南相馬に帰郷したことに気づきました。もちろんこれは私だけのことではなく、だれもが様々な横糸・縦糸に絡められて生きているわけです。
そう考えると、人間の生は歴史的な生であって、だれもがその事実を深く受け止めて生きるべきだ、と改めて思いました。
貴重なご指摘、ありがとうございました。今後ともどうぞよろしく。
貞房先生
2003年1月24日「春の雪」の最後の14行を、先生が言われる「人間の生は歴史的な生」を考えながら繰り返し拝読していました。確かに、先生の言われるとおりだと思います。良いアドバイスありがとうございます。
「歴史は直線状に進むのではなく、自己を中心軸として螺旋状に積み重なる。」
「どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人達が立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!」
阿部さんが引いておられるこのゲバラの言葉を読んでいると、あたかも次のような連想に向かってわたしは強くうながされるかのような気がします。
いまから一世紀と一年前、西欧世界に広く知られることになる二つの詩が、二人の詩人によって書かれました。一つはベルギーの戦場の掩蔽壕で、もう一つはパリのセーヌ河岸の一室で。前者はカナダから従軍した一人の軍医の手で、もう一つはヨーロッパ現代詩三傑の一人とされる詩人の手で。前者はジョン・マクレー、後者はポール・ヴァレリーです。一世紀と一年前の1915年、ヨーロッパは総力戦のさなかにありました。
2003年夏、前年の冬に続き夏のフランドルに再度出かけたわたしは、記録的な猛暑のなかをマクレーの墓所を訪ねるため、ベルギーからドーヴァー海峡に面したフランスの小さな町ウィムルーを目ざしていました。海辺に設けられた墓所を探し当て、マクレーの墓碑の前に立つと、小さなバッジが一つ、さりげなく置かれているのが目に入りました。それは夏の陽光を反射してルビーのように赤くまばゆく輝いていました。さもなければ気がつかなかったでしょう。それほど小さなそのバッジは、七宝で表面に真っ赤な色をしたカエデがあしらってありました。おそらくカナダからやって来た墓参者が手向けたものだろうと思われました。
砂地の墓地は高台にありながら、おりからの暑熱を発散して足元から燃え立つかのようでした。ドーヴァーの海原を眼下に眺めながら墓石の前にたたずむわたしに、ふと思い出された詩編がありました。それはヴァレリーの「海辺の墓地」でした。
海辺の墓地という場所そのものが連想をうながしたのかもしれませんが、同時にこの長詩のなかの次のような詩句もまた意識のなかによみがえりました。(中井久夫訳で掲げます。)
真昼の炬火(torche du solstice)に魂を曝し、
私は耐へる、妙なる正義、
光を武器の仮借ない武装に!
そのときわたしの脳裡に浮かんだヴァレリーとマクレーとの最も顕著な詩的照応は、「炬火」の語とイメージにあったのです。なぜならマクレーの名を不朽ならしめることとなった代表的な詩「フランドルの野に」In Flanders Fieldsのなかにも、最終連に次のようなメッセージが現われるからです。
ぼくらに続け、敵とたたかえ。
萎えつつあるこの腕から炬火(torch)を投げよう、受け取って掲げよ。
死にゆくぼくらとの信義をもしも裏切るならば
ぼくらに眠りはない
たとい雛罌粟は生い茂るとも
フランドルの野に。
これが書かれたのは1915年5月、いままさにベルギーでの激戦の一つ、イーペル戦がたたかわれているさなかのことでした。親しかった若い中尉ヘルマーがドイツ軍の砲撃で五体を吹き飛ばされ、あわただしく仮埋葬の儀式を執り行った翌日の朝のことだったと言われます。
いっぽう、ヴァレリーの詩は戦場で書かれたのではありませんでした。戦火がパリに迫り、家族を疎開させたのち、詩人は一人セーヌ河岸の一室に残りました。それもまたたたかいにほかなりませんでした。「真昼の炬火に魂を曝し」つつ、「光を武器」としてたたかう。それは文学者としての精神のたたかいでした。詩が書き始められたのはやはり1915年のことだったと言われます。
ジョン・マクレーと同じように、チェ・ゲバラもまた医師でした。たたかいのなかで二人とも武器を手に取り、やがて自らは仆れましたが、たたかい続けるために差し出された「別の手」にそれを委ねました。かれらがかざした「炬火」は燃え続けたのです。
ポール・ヴァレリーと同じように、the fugitiveも文筆の人すなわちエクリヴァンです。思索をし、批評を書き、エッセイを書き、小説も書き、詩も書く。かれらも精神の「炬火」をかざし、武器としての「光」を掲げて、後続の人間たちの足元を照らし出し、いまも照らし続けているのです。
一世紀を経たたたかいは依然として終わってはおらず、まだまだ何世紀も続くかもしれません。しかし、いったん灯をともされた「炬火」もまた消えることはなく、「別の手」に受け渡されて、どのように厳しい気象や環境のもとでも、人間の魂を照らし続けて止まないとわたしは信じます。
立野さん
立野さんのコメントそれ自体が、すでにして自立した「作品」です。こんなところにもったいない、とは思いますが、でも嬉しく、そして重く受け止めました。
先日の「野に下るチェ・ゲバラ」を、ふざけて「脂下(やにさ)がる貞房」と読み替えて一人悦に入っている私です。そんなことですから、このブログは、本体の書き手よりコメンテーター陣の質の方が上であるという不思議なブログですね。皆様、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
先生の呑空庵に連なる諸氏のエッセーを、しばし読みふけりながら、時を過ごしました。シューシューとストーブの上で鉄瓶が音を立てるだけの静寂の中で、そのたて糸、横糸、時にほつれた糸に想いを寄せます。私は、先生を真ん中にして、縦横無尽に思索の旅に出ることができる幸いに、感謝です。