立野正裕さんのポルトガル旅行に合わせて、私もむかし旅したポルトガルを、と言ってリスボン以外はすっかり記憶から消えているが、懐かしく思い出している。そのよすがとなるのは、もちろん今の私には本しかない。ペソアに没頭してネットの上でリスボン再訪を試みたのも遥か昔のような気がするが、今回は彼に傾倒したイタリア人作家タブッキの『レクイエム』(鈴木昭裕訳、白水社、2001年)が道案内である。ただし実際に手にしているのは、クリーム色布表紙の分厚い手製合本で、赤い背皮の豪華本(?)だ。他に『インド夜想曲』、『遠い水平線』、『逆さまゲーム』、『供述によると…ぺレイラは…』が一緒。
その『レクイエム』だが、実に奇妙な物語である。副題が「ある幻覚」となっているように、全編一人のイタリア人が生前敬愛していたポルトガル人作家を夢の中で訪ねるというもの。しかもポルトガル語での著述である。彼がポルトガル語の教師をしていたとしても、そしてイタリア語とポルトガル語が同じロマンス語系に属する言葉であるといっても、この傾倒ぶりは半端じゃない(ハンパナイとは違うぞ!)。
物語はすべて会話もしくは一人語り、すなわちいわゆる地の文がほとんどなく、すべて会話体で進行するのだが、今誰がしゃべっているのか実に明瞭なのだ。だいぶ前から難渋している大江の健ちゃんの『晩年様式集』とはまたえらい違い。健ちゃんの作品も複数の人間の語りで進行するのだが、今誰がしゃべってるのか分からなくなる箇所が何度もあり、その前後を何回か読み直さなければ分からず、時に心ならずも(?)癇癪を起こしてしまうことがある。
翻訳がうまいのかも知れないが、どうもそれだけでなく、原作者の技術(?)が見事なのだろう。なんて書くとノーベル賞受賞作家には嫌味に聞こえるかも知れないが、でも健ちゃんにはもう少し整理して書いてほしかった。
例えば『レクイエム』の中で、主人公がようやく出会えたタデウシュという作家と食堂に行き、そこの主人や厨房にいたその奥さんと四つ巴えの会話の部分でも、いま誰がしゃべっているのかが実によく分かる。というより現に読者がその場に居合わせているがごとくにリアルに(この言葉、最近テレビなどでいやに安手に使われていてキライだが)感じられる。
ついでに紹介すると、その時出てきたサラブーリョという料理の作り方をおかみさんが細かく伝授する場面だが、ショーケースの中のサンプルなんてもの以上に見事な実在感をもって読者に見えてくる。
で、その時、幻の(文字通りそうだ)作家タデウシュ(もちろんペソアでしょうが※)がおかみさんの説明を受けて、自分の創作術の秘密をこう明かしている。
「こういうのをなんというか知っているかい、物質文化に関する高等講義だよ。ぼくという人間は、イマジネーションの世界よりも物質界の方をいつでも重んじてきた。というよりも、イマジネーションの世界に物質の実在感で厚みをつけるのが好きだったんだな。空想は空想でも、地に足のついた空想だ。集団的な想像力もしかり、ユング先生にはだれかがはっきり言ってやるべきだったな。想像力の前に (おまんま) ありき、ってね」
なるほど。それこそペソア文学の神髄だし、彼に深く傾倒したタブッキの魅力でもある。このごろ老い先の短いことばかり気にしてどこか生き急いでいるところがあったな。この辺ですこしゆったり生きることにしよっと。
ところでタブッキは今はもう引退したと思うが、ジェノバ大学のポルトガル文学の教授だった人で、私より四歳も若い作家である。今しばらく彼と付き合って(読んで)みようか。
※10日の注記 全体を読み終わってから考えたのだが、このタデウシュをペソアとしたのは早とちりのようだ。つまり最終章に出てくる食事の相手こそが、どうもペソアらしい。と言って、作中の誰彼を実在した誰彼と特定すること自体意味がないことかも。
佐々木先生、いまフランクフルト空港の乗り換えロビーで帰国便を待っているところです。
『レクイエム』が面白そうなので読んでみたくなりました。アマゾンで注文しましたから、帰国と同時か直後ぐらいに届けてもらえると思います。
タブッキも作風が幻想的なものからリアリズムを通したものまで、いろいろですね。ちと食わず嫌いの気味がわたしにあったようです。
これから十時間あまりの長旅は、ポルトガルの旅のおさらいをしてすごすことになりそうですが、当地へやってくるときに機内で見ていた映画で、北欧の作品がありました。途中で着陸したので最後まで見ておりませんが、一人暮らしの偏屈な老人の生活を描いたもので、ちょっとイーストウッドの『グラン・トリノ』を連想させる筋立てです。面白かったので、もしそれを見ることができたら、最後まで見ておこうと思っています。
「偏屈」な老人は多いですが、筋を通そうとする人間がとかく「偏屈」扱いされる現今に、頂門の一針となるような作品かもしれません。『グラン・トリノ』がまさにそうでした。
では、また帰国したら談話室にお邪魔します。
立野正裕
立野正裕様
すると今頃はまた機上の人でしょうか。実に面白く有意義なポルトガル行でしたね。ところで『グラン・トリノ』ですが、クリント・イーストウッドの老人役がはまってました。あれくらい芯のある偏屈者になりたいですが、もともと気が弱いから駄目でしょう。昔から、ああいう老人になりたいなと思っていたのは『寅さん』や『東京物語』の笠智衆さんでしたが、こちらの方も体型やら生まれつきの性格やらであきらめました。結局、貞房流の爺様になるしかありませんな。
※7日朝の追記
いま『レクイエム』の真ん中あたりを読んでいる。安宿で仮眠をとっている主人公を(それももちろん夢の中)若い父親が(死んだのはだいぶ後だが、なぜか若い父親になっている)訪ねてくるくだりを読んでいると、なぜか涙が溢れてきた。ほんと理由が分からぬ。決めた! もう少しタブッキのこと調べよう。で、急いでアマゾンから「ユリイカ アントニオ・タブッキ特集」(1998年1月号と2012年6月号)を注文した。
先生と立野さんのやり取りを拝読して、書棚に『へんくつ一代』(三好徹 講談社
1989年11月16日第一刷発行)があったのを思い出して懐かしくパラパラめくっていました。そのあとがきにこんなことが書かれてありました。
「お読み下さればわかるが、かれらは歴史の主役ではない。むしろ通行人程度かもしれないが、時として主役を立往生させるような存在感をもっている。筆者は、この歴史の襞に埋もれているドン・キホーテじみたかれらを珍重する立場から書いている。正直にいって、かれらのような道をたどることは容易ではない。人は信念や闘志をもつことはできるが、もち続けることは難しい。筆者もその例外ではないが、気分として抱いている共感をわかっていただけるとありがたい。」
「偏屈」という言葉はニュアンスの違いはありますが頑固、気節とも取れると思います。英語のobstinacyのような意味です。立野さんのコメントの中でサラザールの名前がありましたが、当時のポルトガルは国際連盟に訴えて、財政管理を強いられるような国家的破産状態だったのを地方大学の財政学の一教授のサラザールが僅か数年で根本的立て直しをやったことは知っていましたが、なぜそんなことができたのかを、この「偏屈」という言葉に隠されているように想像しています。やはり、小手先の経済政策ではなく、国民の心を一新するような気節ある見識の高いリーダーが日本にも求められているんでしょう。
佐々木先生、今日の午後二時半に無事羽田に着陸しました。先ほど帰宅したばかりです。先生もおっしゃってくださったように、今回のフランクフルト経由ポルトガルの旅は、さまざまな意味で自分としても充実した旅だったように思われます。いずれおいおいご報告してゆくつもりですが、帰国早々この談話室にお邪魔したのは、映画のことに触れたかったからです。
機上で映画ばかり見ておりましたから、途中うつらうつらしたぐらいで、ほとんど一睡もせずです。遠藤周作原作になる『沈黙』も見ましたし、『夜に生きる』という犯罪映画も見ました。
しかし、むろん往路で最後まで見られなかった『幸せなひとりぼっち』というスェーデン映画を見るのを楽しみにしていたのです。ところが残念ながら、帰路のプログラムにこの映画がありませんでした。その代わり、『わたしは、ダニエル・ブレイク』というイギリス映画を見る機会が得られたので不満はありません。ケン・ローチ監督の最新作です。
この映画でも、妻に先立たれた初老の男が主人公です。『グラン・トリノ』の主人公は定年退職直後でしたが、『幸せなひとりぼっち』の主人公はリストラされ、いっそ死んでしまおうと思い詰めている最中です。
いっぽう、『ダニエル・ブレイク』の主人公は、心臓疾患のためドクターストップがかかって仕事に従事することができないため、給付金を申請して生活をやり繰りしようとしますが、役所の官僚主義が絶対に給付金を出さない堂々巡りの仕組みになっているため、書類を書いては却下される、面接を受けては書類未提出を口実に門前払いを食わされる、といった具合で先進国の福祉の形骸化をえぐっております。内容はこれ以上詳しく申しませんが、これまでのケン・ローチの作品のなかでもとくに傑作と言っていいのではないかと思います。
上記三本の映画の主人公たちに共通しているのは、三人が三人ともいわゆる「頑固」で「偏屈」な男たちであるということですが、阿部さんの言われるobstinacyに該当する性格ですね。
さらに共通している点を挙げれば、かれらが、不本意にも新しく隣人となった人々との余儀ない遭遇を通じて、本人の生き方そのものが変わってゆくところでしょうか。人間の情愛や限界までもが、奥の深いまなざしをもって見つめられ、興味深くじっくりと描かれています。しかもその隣人というのがアジア系だったり、イラン系だったり、シングルマザーだったりと、世の通念からすればマイノリティであり、主人公の従来の人生観からしてさえ「異質」性を際立たせているところも、映画に共通のアクチュアリティを与えている一因となっています。
かつて『グラン・トリノ』の映画評を書いたとき、イーストウッドの「最高傑作」であるとうっかり筆を滑らしてしまったことを思い出します。その後現在にいたるまでのイーストウッドの驚くべき創造力を十分に予測できなかったかのようで忸怩たるものがあり、その轍を踏みたくないので、ケン・ローチのこの映画の場合も、深い人間的感動を与えられる一本である、とだけ謙虚に申しておくほうが賢明でしょうか。
それにしても、佐々木先生! ローチといい、イーストウッドといい、驚くべき創造力ではありませんか。
立野正裕 様
無事のお帰り、おめでとうございます。
私の方はまだ『レクイエム』をちんたらちんたら読んでいるところですが、ちょうど主人公が「聖アントニウスの誘惑」を見に行くところがあり、今回の立野さんのリスボン体験とぴたり重なってびっくりしてます。
旅の疲れを癒しながら、たぶんもう配達されている『レクイエム』をゆっくりお読みください。
佐々木先生、
メールボックスにおびただしい郵便物と宅配便の書籍やらDVDやらが届いておりましたが、『レクイエム』は見当たりません。ボックスに入りきらず、配達人が持ち帰ってしまったものも少なくないようですから、そのなかに混じっていたかもしれません。
映画を機内でいろいろ見たと申しましたが、そのうちの一本が『沈黙』でした。偶然ですが、リスボンとの関連で、映画の冒頭にこういう場面がありました。
二人の若いパードレが日本に布教に行ったまま消息を絶ったフェレイラの探索を兼ねて布教続行のため、自分たちも日本に行かせてほしいと熱心に頼み込み、ようやく認可を得ます。そのあと名残の風景を眺める場面があるのですが、その場所がリスボンの名高い展望台で、おとといの夕方、アテナならぬマリアの運転するタクシーで、街とテージョ川を一望するその風景を、わたしも堪能したのでありました。
旅の意図と目的が、偶然や幸運とより合わさり、今回はとくに内容豊かな旅となったことはまちがいありません。
『レクイエム』を手に取るのは明日以降でしょうか。楽しみです。
佐々木先生、この自由な談話室を拝借して、澤井ゼミ長とのしばしの閑談をご容赦願います。
澤井ゼミ長!
ここ数日あの独特の語り口に接しなかったのですが、ゼミ長もお変わりなくお元気でしたか。
シーバスリーガルまたはバランタイン17年の代わりに、昨夜わたしが手にしていたグラスの中身は、ニッカの竹鶴12年でした。これはわたしのかつての学生だった女性からの贈り物で、わたしが著書を出すたびに、また頑張りましたね、次の本も待っていますよ、という激励の意味合いで贈ってくれるのです。
わたしは酒はなんでもやりますが、いつも免税店の前で躊躇するのです。それは、すこぶる上等のブランディを一本だけ自分のために買って帰りたいなぁという誘惑に駆られるせいです。昨日帰国したのですが、リスボンまたフランクフルトの空港でも、その誘惑との若干の内面的な(?)戦いを必要としました。
従来はワインか、さほど高くないスパークリングワインで帰国の「けじめ」(?)をつけるのですが、このごろブランディまたはコニャックに移行しつつあります。深夜族または夜間飛行型のわたしの悪徳には、ミステリーの読書かスパイ映画を見ることが筆頭に挙げられますが、その際、以前はもっぱらワインまたはスパークリングのグラスを傍らに置いておりました。
それを蒸留酒に変えることにしたのは、醸造酒の酒量と夜食の摂取過多を抑えるためです。
しかし、帰国直後はやはり日本酒もいいですね。大吟醸をぐびりとやりながら銀だらの西京焼きをつつく、という贅沢も、旅からの無事の帰還を寿ぐという手前勝手を押し通すための絶好の口実になりますし……。
帰国早々見たいと思っている映画が一本あります。『リスボンに誘われて』という邦題ですが、原題は『リスボンへの夜行列車』です。どうも内容がリスボンから帰ったばかりの自分にぴたりとくるような気がして、興味をそそられているところです。
閑話休題。若者たちの読書量の少なさは、この四十年あまりの教師生活でも日々痛感しないではいられなかったことですが、いっぽうで、わたしから影響を受けたと言い張る元教え子たちのなかには熱心な読書家が何人もおり、「立野選定世界名著101冊」をぜひ教示賜れ、とせがまれてうれしい義務感に駆られます。
独断と偏見に満ちたその選定書目録を作るのも、ブランディをなめる絶好の口実になりますから、いよいよわが悪徳は病膏肓の域に達しつつあると申さねばなりません。
ついでに申しますと、冒頭に記した竹鶴を贈ってくれる女性は、生業としてパン屋を経営しており、日々猛烈多忙であるにもかかわらず、過去十数年前にわたしの慫慂にしたがい、「世界名作100冊読破」目標を達成しきった「女傑」(いまはpolitically incorrectな言葉ですが)であります。本を読むことの大切さ、重要さ、その意味と意義、学生時代にもっと読んでおくべきだったという改悛が動機となって始めた読書三昧、えてしてそういうものなのでしょう。
そこへゆくと、幸か不幸か年少にして物語文学の虜となり、学業をさぼりにさぼって成績不振を親に嘆かれながらも、本ばかり耽読しながら生きてきた人間などのほうが、かえって異常中の異常と言わざるを得ないのかもしれません。五十年前までは、本好きが昂じて文学部に入ってきたようなわたしのような学生といえば、疑いもなく「無用者の系譜」につらなるにすぎないアウトサイダーとされたものでしたから。
こんなふうに図に乗って、グラス片手に澤井セミナーハウスにもお邪魔させていただくこともあるかもしれませんが、どうかご海容をお願いします。
立野拝
なにやら談話室からお酒の匂いが漂ってくるなと覗いてみたら、なるほど。澤井さんがびっくりするような高級酒の話をしてるのでびっくりしたら、なんと「口だけ酒」ですか。
私は夕食時の家内のご相伴でいろいろビールやら安酒を飲んでましたが、家内が飲まなくなってからはもっぱら330mlの、それも一番安いベルギーのベルモルトという発泡酒一缶。しかしそれにも飽きて二週間ほど前から日本酒、と言って立野さんのように大吟醸酒なんてものではなく、紙パックに入った「鬼ころし」。でも器はなぜかお猪口くらいの小さな金杯。はてこの金杯だれからもらったのか。もしかすると亡くなった義父の源一つぁんから何かの祝いにもらったような気もしますが、まったく記憶にありません。息子らしく一緒に飲んだり話をしたりしてやればよかったなあ、と後悔しながらちびりちびり、それも一杯半くらい飲んでます。どうもしけた話で申し訳ない。
※9日の追記
先ほど届いた「ユリイカ」、2012年6月号で、タブッキがこの年3月25日に68歳の若さで亡くなったことを知った。まだわずかしか読んでいないけれど、実に惜しい人を失った。でも他のどの作家よりも、死後も読者の中にながく生き続ける作家であることは間違いない。まるで彼自身そのことを絶えず意識し願いながらの作家活動に終始した人だと今にして思う。合掌!
佐々木先生、
『レクイエム』を読んでおります。閉館後の美術館で、『聖アントニウスの誘惑』をめぐって模写画家と対話する主人公が、この絵のもう一つの側面を知らされてびっくりするところまで来ましたが、このくだりで主人公ともどもわたしも衝撃を受けたのは、「帯状疱疹」という伝染病のことです。そんな伝染性ウィルスが存在することはむろん、それが「聖アントニウスの炎」と呼ばれていた時代があったこともわたしは全然知りませんでしたが、この病名が、タデウシュが最期につぶやいた謎めいた言葉にほかならなかったことが、物語の40ページを過ぎたあたりに出てきますね。
しかし、模写画家はさらに暗示的なことを告げます。つまり、その伝染病は周期性をもって現われるが、それはさながら人間の「悔恨」に似ている、と。
「わたしたちのなかで眠っていたものが、ある日にわかに目をさまし、わたしたちを責めさいなむ。そして、わたしたちがそれを手なずけるすべを身につけることによって、ふたたび眠りにつく。でも、けっしてわたしたちのなかから去ることはない。」
まるで自分がこの物語のなかに入り込んでしまったかのような錯覚にわたしはとらわれそうです。なんのために『聖アントニウスの誘惑』をリスボンまで見に出かけたのか。申しあげたとおり、数ある名画のなかでこの一作だけが目当てだったのですが、それはなぜだったろうと改めて自分に問い直したくなります。
いずれにせよ、わたしもまた主人公と同じように、「いまやこの絵はぼくにとって、これまでとはちがった意味をもつようになりました」と言わねばならないことは確かです。
それかあらぬか、まさに数日前にリスボンで、その不思議な絵を前に自分が長いあいだ佇んでいたと同じように、いまこの物語の98ページから101ページにかけて二読三読しながら、ふたたび絵の前に立ち尽くしている自分を見るようです。
立野さん、おはようございます。
でしょう? 今回の貴兄のポルトガル行がまるでペソアやタブッキの霊に誘われたものであるかのような、そんな不思議な符合を感じます。