「ちぇいすとおーッ」
『新・子連れ狼』の斬り合いの場面で画面いっぱいに広がる叫び声である。
大五郎の父親代わりとなった東郷重位(しげかた)の気合だが、これまでだったら「えいっ!」と叫ぶところ、重位はこんな奇妙な声を発する。作中人物の一人の説明によると、「これは猿叫(えんきょう)という流派を問わず自然に発すものなれど重位の示現流はひときわ大きく並居る者たちの肺腑をえぐる」という。幼い大五郎も重位に倣って叫ぶが、さすがにまだ迫力不足の「ちゃああーン」止まり。
大五郎が箱車に乗っている絵をこれまでも目にしたことがあるが、実は箱の上辺の木枠に槍が仕込まれていることを今回初めて知った。油断のならぬ坊やである。そしてこの箱車ではからずも思い出したのは、天保四(1833)年、つまりまさに天保の大飢饉直前に、天秤棒の先に担がれて相馬に来た私の曽祖父・二歳の與八(庄八の幼名)坊やのこと。母方の祖父・安藤幾太郎の残した『故安藤庄八翁の傳』にはこう書かれている(私家本『虹の橋・補遺』に紹介済み)。
「翁ハ天保三(1832)年九月十五日陸奥国八戸町川内村に生る幼名を與八と称す家世々農なりしが天保四年三月翁二歳の時父庄八母つぎ姉きみと一家を挙げて移住を企て郷里を去りて磐城国標葉郡大堀村瀬戸焼業庄次郎(現今陶運〇の家)といへるものに寄る…省略…庄八五歳のとき歳飢盗賊の難ありて人々安居することを得ず止むなくここを去り常陸国水戸市にいたり常盤大護院に寓したり次いで魚商を営みたり此の間母病んで死す翁十五歳のとき水戸藩士二千石を食める岡本友之助の若黨となる翁性剛毅忠直主の愛する所となり或る時翁を試みんと翁の夜警所に微行せしに翁之を見付け矢庭に脇差を抜いて切りかからん気構なり主人聲をかけおまいの膽力見えた見えたと言へて賞されしとなん翁の父また相馬を戀ひ水戸を去り再び川房村門馬方に身を寄す……爾来幾星霜遂に今日に及ぶ祖父平生子孫に教ふるに勤倹忠実を以てし老躯と言えども安逸を貪らず丹精壮者を凌ぎ郷人の尊称する所なり翁また夙に基督教を信じ明治三十年八月二十二日家族五人を率ゐて宣教師ホーイ師より授洗したり自らアブラハムと称し人を教へ他を導き嘗て怠ることなしその信仰の篤くして誠神に透る人その徳を欽仰し翁を徳とせざるものなし然るに明治四十二(1909)年十二月三日七十八歳を以て溘焉として逝去す
【拾遺】
安藤姓を名乗ったのハ磐城平の藩主安藤姓を取ったとして家へ傅へし刀一振短刀(達磨正宗)ハ上り〇の紋ありて平藩の上役家老あたりの用ゐしものなりし馬具、陣笠の破れたるものもあった…(原文のママ、ただし〇部分は判読不可能。)」
※語句の説明
おまい…相馬弁でお前のこと
微行…身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと
アブラハム…このことは杉山元治郎(1885-1964、農民運動家・政治家)の『土地と自由のために』の中の「私の農村伝道」小高時代の経験に出てくる。
溘焉 [こうえん] として…人の死去の様について「とつぜんに」の意。
長々と引用してしまったが、中にどうしても意味が取れない箇所が何か所かある。まず以前八戸に問い合わせてもそういう名の村はありませんと言われた川内村のこと、次に安藤姓を名乗ったのは磐城平藩の藩主(実際は老中)を取った、とあるが、平民の分際でそんなことができるのか。もうどこかで言ったことだが、これは禁制の思想家・安藤昌益と何らかの関係があることを糊塗するための作り話ではないか、などの疑問である。だが残された時間の中でそれらを究明するのはとても無理、諦めてます。
いずれにせよ、会津から相馬への落ち武者だった父方の先祖も、天秤棒に担がれて相馬に流れ着いた母方の先祖も、もし我に小池一夫(「子連れ狼」の原作者)並みの構想力と文才あらば、二つを合わせて(?)血湧き肉躍る大時代小説でも書いたものを……無念!ちゃああーン!ちぇいすとおーッ!